『敵兵を救助せよ』の感動を伝う
2008年11月25日(火)
タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問 清水晃
大東臨戦争勃発の翌年、1942年3月に日本海軍は英米蘭豪の連合艦隊とインドネシアのジャワ島沖で、戦って敵を全滅する勝利を得ました。その時の出来事であります。
開戦の直後、12月10日、マレー沖において英蘭東洋艦隊の主力である新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパノレスを日本海軍航空隊が撃沈しました。その時、沈没した両艦の乗組員を英国駆逐艦が救助してシンガポールに帰投しました。その救助作業中、日本の航空隊は一切敵艦に攻撃を加えずにシンガポールまで、偵察を続けました。
連合国は主力の英国艦船を失ったあと、ABDA(米英蘭豪)連合艦隊を組織して、日本軍のインドネシア上陸作戦を限止するため進出して、ジャワ海で日本海軍と激しい戦闘がおこりました。日本海海戦以来史上37年ぶりの、双方あわせて30隻の規模の大艦船決戦となりました。
2月28日深夜の海戦においてABDA艦隊は14隻中11隻が撃沈されて敗色濃厚となり、残りの3隻はスラパヤ港に帰投しました。かくして3月2日早朝、日本輸送船団はジャワ島東部に上陸を完了しました。一方、スラパヤ港に帰投した英重巡エグゼターは応急修理を施して、英駆逐艦エンカウンターと米駆逐艦ポープを護衛に従え、インド洋に出てコロンボ港に退却することを企図して出港しました。しかし、足柄、妙高,那智、羽黒の重巡を主力とする日本艦隊と激闘しました。衆寡敵せず大破しても降伏せずに自沈をはかりましたが結局撃沈されて、ここにABDA艦隊は全滅しました。
このとき駆逐艦「雷」(工藤俊作艦長、1,680ton)は戦開に参加していません。蘭印攻略司令宮高橋伊望中将座乗の重巡洋艦「足柄」の直衛を担当していました。工藤艦長の統率力と乗組員の士気と錬度の高さが評価されたと考えられます。「雷」は燃料、兵站補給をうけて戦闘海域に向かいましたが、夕刻に到着したときはすでに戦闘は終わっていました。
それまでに僚艦「電」はエグゼターの乗組員376名を救助していました。日本の駆逐艇は、戦闘能力を5000トン級の軽巡洋艦なみの装備にしたため、燃料タンクは小さくして航続距離が犠牲となりました。ワシントン条約の制約を克服するため、日本の造船技術の粋をつくし、主砲12.7センチ、6門、魚雷発射管9門、速力38ノット、という世界の最高水準に達していました。
3月1日午後2時すぎエンカウンターから脱出した乗組員は、僚艦がみな沈没して日本艦隊も次の作戦行動に去ったため救助の目途は見当たらず、オランダの偵察飛行艇に発見されるのが唯一の希望でした。翌2日は赤道に近い海上で灼熱の太陽のもとに苦しみ、重油にまみれてすでに約23時間漂流していました。もはや劇薬をあおって自決する寸前にありました。その時、午前10時ごろ駆逐艦「雷」が漂流者を発見し、空前絶後の救助作業が始まりました。
この海戦の前には米潜水艦がジャワ海域で活動しており、日本の駆逐艦や輸送船が相当数沈められていました。その時、工藤俊作艦長の号令は、「一番砲だけ残し、総員、敵溺者救助用意」という決断でありました。潜水艦攻撃の危険のさなかにありましたが、「雷」は艦長の号令のもとに直ちに総員で救助作業を開始しました。
英蘭将兵の漂流者は、負傷者を最初に引き上げるよう合図をして、それが終わると士宮、兵員の順序で縄梯子を上ってきました。しかし、すで、に体力の限界にあって救助の竹竿に触れると安堵のため海中に沈み去るという悲劇が起こりました。雷の乗組員は海中に飛び込んでロープを巻きつけて一人でも多く救助することに全力をあげました。
最終的には残る422名の救助を完了しました。乗組員200名の「雷」の甲板は敵兵で埋まりました。工藤艦長は英国士宮を整列せしめて彼らの勇戦を称えて、諸氏は本艦のゲストとするとスピーチを行いました。この中に当時英国海軍少樹で、あったサミュエル・フォール卿がいました。彼の自叙伝「My Lucky Life」に、救助された時の詳しい状況が語られています。
重油で黒くよごれた敵兵の一人ひとりにたいし、日本側乗組員は二人ひと組でかかり、アルコールで体を洗って、水や食料を支給して看護を尽くしました。衣服が足りなくなったので私物まで提供しました。工藤艇長は小柄な伝令に、もし捕虜が反乱を起こしたら弱っていても体は大きいから小さい者はかなわんから気をつけよと、からかったそうです。工藤艦長は185センチの偉丈夫で大仏の綽名もある柔道の猛者でしたが、兵員にたいする気配りはきめ細かく、鉄拳制裁を禁止したので、下士宮の鬼兵曹たちには煙たがられたようですが、艦内の一致団結は艦長のリーダーシツプによって高度なものになっていました。それが困難な救助作業を遂行せしめました。「いかなる堅艦快艇も人のカによりてこそ、その精鋭を保ちつつ強敵風波に当たりうれ」という軍歌そのものの姿であったと思われます。
このような勇敢な行為が生まれたのは、工藤艦長の資質にあることは疑いありません。その根底には海軍兵学校における武士道教育があります。工藤艦長は海兵51期生で大正12年7月14日に卒業しました。同期生は軍縮の前で、あったので255名で縮小の直前でした。その頃校長で、あった鈴木貫太郎中将(のち大将、終戦時普相)の教育思想は、軍人である前に紳士であれという人間教育でありました。鉄拳制裁を禁止し、率先垂範する行動力と、謙虚な度量をもつように生徒を指導しました。
五省という徳目は、海上自衛隊幹部候補生学校に継承されていますが、それは昭和7年に始まったものです。大正時代において、鈴木貫太郎校長は、型にはまった人間をつくらないというリベラルな教育を指導しました。文武両道に秀でる人間こそ国の守りの礎であって、国際的に適用する人物でなければならにという信念でありました。
因みに昭和20年、終戦直前の半年、海兵第77期生徒として江田島にいた私の体験でも、戦争末期においても人間教育の伝統は守られていました。英語は4教科あって、英英辞典が支給され、英語のみの授業もありました。ナイフとフォークを使う食事礼法の指導がありました。また分隊対抗の野球の試合もあって、わが分隊は連勝していました。棒倒し、遠泳、カッター競争、剣道、柔道などは、軍事訓練と同様に重要で、ありました。乗艦実習では日露戦争の時の戦艦出雲に乗りました。呉の沖で触雷した瞬間、マスト登り訓練の途中で縄梯子から綴り落とされそうになりました。練習艦隊はいまや帝国最大の艦隊であるという甲板士官の説示は諦めのなかにさえユーモアがありました。
昭和19年に父を亡くした私が終戦後の混乱を乗り越えて国際ビジネスの社会に生きてこられたのは、江田島における訓練の現場体験と、英語のレッスンによる知識などが大きな力となったと言えます。さらに「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」というエスプリのおかげであると確信しています。
さて、工藤俊作、その人となりについて触れておかねばなりません。幼時、学儒好きの祖父から明治維新の話と日露戦争後の日本の富国強兵の道を聞かされました。日本海海戦のおりの上村彦之丞中将のロシア将兵627名救助の話も関かされました。小学校を終えると上杉家の藩校として有名な山形県立米沢興譲館中学校に入学し、英語の先生である我妻又次郎教諭の薫陶を受けました。我妻先生は海兵を志したが視力が弱かったため実現せず、教職に進んで志を後輩の指導に注ぎました。工藤と友人の数名の海兵志望者を親身になって指導しました。工藤は温厚寡黙な性格で、いわば気は優しくて力持ちでした。我妻又次郎先生は、我妻栄東京大学名誉教授の父君で、栄を興譲館で教えました。栄は第一高等学校を経て東京大学法学部を首席で卒業しました。因みに私は戦後、我妻栄教授の民法の講義を受けました。なにか工藤中位と縁がつながっているような気がします。
ではふたたび、「雷」艦上の救助の舞台に戻りましょう。救助された英国将兵は、ようやく元気を取り戻して翌日抑留中の蘭病院船に全員移送されました。重傷者の英国士宮は、一室を提供されて看護当番をつけてくれた工藤艦長の行為を感謝し、涙をながして握手して別れました。士宮は工藤艦長に挙手の礼をして退艦してゆきました。兵員は嬉しさを体で示して手を振って賑やかに去ってゆきました。かくして、この救助劇の幕は下りました。このオランダ病院船の士官の態度は倣慢でありましたが、乗組員の東洋人は「雷」の軍艦旗に挙手の礼を行って迎えました。ここで「敵兵を救助せよ」の幕は下ります。それから今日まで、「献兵を救助せよ」のドラマは気の遠くなるような60余年という長い幕間が続いてきました。そして、ようやく元英国海軍士宮、サミュエル・フォール卿(Sir Samuel Falle)の手によって幕は再びあがることになりました。
その間は永い苦しい戦争であります。翌月4月18日米空母「ホーネット」から発進したノースアメリカンB25が東京を空襲しました。それから2ヶ月たらず、開戦後わずか半年たったばかりの1942年6月5日、ミッドウェー海戦において、米軍機によって日本海軍は主力空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を一挙に失う大打撃を受けました。その事実は当時の国民に知らされませんでした。因みにマレー沖海戦で戦艦2隻を失った英国ではチヤーチル首相が翌日下院において悲痛な報告をしています。
ミッドウェーは文字通り戦いの道の途中で、日本は運命の分岐点に乗り上げていました。失敗を生かすような論議などをする思想的な自由は、日本の風土にはありませんでした。攻勢防御というタイトロープ上にあった日本は一転して守勢に立つことになって敗戦への道を転げ落ちてゆきました。そして戦時中の出来事は人が去るに従って忘れ去られてゆきました。
フォール卿は捕虜生活を送って戦後帰国されたあと、外交官として活躍されてスエーデン大使などを勤められました。勇退されてから自叙伝を上梓されましたが、それには工藤俊作中佐に捧げると献辞が記されています。工藤艦長の英雄的決断と「雷」乗組員全員の果敢にして親身な救助作業を夢ではないかと腕を抓ったと回想されています。
工藤艦長は1979年、昭和54年1月12日、78歳の生涯を終えられました。その年の7月ポーツマスに入港した海上自衛隊練習艦隊司令官にたいし英国海軍から工藤中佐の消息調査の依頼がありました。依頼の主はフォール卿ありました。それまでも幾度か依頼はなされたが日本に伝わらなかったことを反省せねばなりません。もう1年早ければ工藤中佐とフォール郷の再会が実現したかも知れません。フォール卿は当時EUの駐アルジェリア代表でありました。フォール卿は米国海軍紀要あるいは英国の新聞The Timesなどに投稿され、また1992年ジャカルタにおけるスラパヤ沖海戦50周年記念式典で記念講演を行い、工藤中佐は日本武士道の鑑と称えたのであります。
工藤中佐の没後、時はさらに4半世紀流れて、2003年に海上自衛隊の観閲式が行われた際、フォール卿が日本に招待されて、護衛艦「いかづち」(4代目「雷」)の艦上において静かに語られた事績は、日本人にとって初めて知らされたことでありました。フォール卿は、その時すでに84歳の高齢で歩行も不自由でした。工藤中佐がすでに死去されたことを知り、非常に落胆されました。帰りがけに恵隆之介氏に工藤中佐の墓所を尋ねられたことから、恵隆之介氏が一念発起して行動を起こしたことによって、「敵兵を救助せよ」(2006年草思社)という感動的な労作が産み出されました。
戦後なにも語らなかりた工藤中佐は、サイレントネーピーという海軍軍人の矜持そのものでありました。
戦後、恵隆之介氏が工藤中佐の故郷山形県・高畠町を訪問した時にもご親戚の誰ひとりその事実を聞いてはおられませんでした。
墓所が埼玉県川口市朝日にある薬林寺と判明したことを、恵隆之介氏からフォール卿に報告したところ、療養中の身をおして命あるうちに日本に行って、工藤中佐の墓前に永年胸におさめていた深い感謝の意を捧げたいという熱望が伝えられました。
かくして恵隆之介氏は、全力をつくして工藤中佐とフォール卿の武士の魂の再会を実現したいと決意しました。私もこの活動に協力する決心を固めました。工藤俊作中佐(海兵51期)→清水晃(海兵77期)→恵隆之介(元海上自衛隊士官、江田島・海兵100期相当)と3人の海軍の絆はつながりました。
私は恵隆之介著『敵兵を救助せよ』の英語版「Bushido over thesea」を脱稿したところです。目下その出版の方策を検討中であちます。なお、恵氏の友人である英国の作家ピーター・スミス氏の近著「Midway-Daunt less Victory」の日本語版制作についても検討中であります。
そして、英語版「Bushido over the sea」は工藤中佐と雷乗組員の塊とともに、とれをSir Samuel Falleに謹んで捧げたいと存じます。
清水晃タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問元英国暁星国際大学学長 海兵77期
〒813・0044福岡市東区千早5-5-43-1209 携帯090・8012・8018 Ashimizux@aol.com