think kagawa (11)-ロバート・オーエン再発見(2)
ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残した。地域通貨や労働組合などもそうだが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営だった。
協同組合は1844年代にマンチェスター郊外ののロッチデールで始まったものとばかり思っていたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だった。
200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようである。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だった。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていた。しかも多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方だった。
そうした状況は100年前の日本でも同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでてこないが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれている。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いない。
ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することだった。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えた。お酒についてはオーエンは比較的寛容だった。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようだった。
1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売した。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけでなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもあった。
この建物は現存しているが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずだ。
ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではなかったが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド(40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのだ。つまりお金の価値を高めたのである。
やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなった。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれた。
労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えた。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々はオーエニーズと呼ばれた。ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイオニア・ソサエティー」設立にこぎつけた。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めた。
10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めた。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていた。
彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにあった。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合った。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視-という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものである。
ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大した。日本で本格的な生協が登場したのは1920年のことである。賀川豊彦が8月、大阪市に有限責任購買組合共益社を設立したのが嚆矢(こうし)である。(伴 武澄)