土佐山村資料集というものがある。村内に残る歴史的資料を網羅した歴史である。その中に西川地区に残る新聞「民報」への言及がある。中国革命を支援するために高知出身の萱野長知が編集し、土佐山の和田三郎が関わった新聞で、大正初期に短期間、発行された。いまや散逸してすべての発行号を見ることはできない。西川地区にはその大部分が残る。貴重な資料である。

 新聞 「民報」 (西川) 西川部落藏

                〔作者・筆者〕 民報社 〔時 代〕 大正ご丁四年
                〔形状・寸法〕 全判ニツ折
 中国の革命家、孫文(1966(慶応2)~1925(大正14))の運動を支援したといわれる、土佐山村西川出身の元板垣退助秘書・ジャーナリスト和田三郎が、地元の西川青年会へ寄贈したもの。所々に「西川区青年会図書部之印」の朱方印と「和田三郎氏寄贈」の記載がある。現在残るリストは、部分的な欠号はあるが、後記の大正3年(中華民国3年、西暦1914年)7月4日(17号)から翌4年2月7日(117号)までの約半年分である。
本紙については、東京の国立国会図書館に3年6月27日から同年12月18日までが残り、東京大学の明治新聞雑誌文庫に第13号(大正3、6、30)のみがあるが、高知県内ではまず他に残存していないのではないかと思われる。判明した点を紹介しておく。
 紙名は「民報」。大正2年9月12日第三種郵便物認可。日刊無休であるが、一部休刊があっている。発行所は東京市日本橋区坂本町二十七番地、中華民国通信社内民報社。場所は4年1月末、麹町区有楽町一丁目三番地に移転している。初期の発行人は萱野長知、同じく編輯兼印刷人が岡村周量。
 萱野は高知県出身の大陸浪人で孫文を支援する日本の代表的志士の一人であった。以後のスタッフは太宰雅各、松下善朗、山田正司らと代っている。支局として台北に台湾支局が、大陸に北京、上海、厦門、汕頭、香港、奉天の各支局があった。紙面は四頁立。大様一面が論説と国内政局、二面が華国を主に国外政局、三面社会、四面小説と市況、となっている。振仮名つき、絵入、写真入。
 対外問題についての論調は袁世凱攻撃と大隈外交の非難に終始し、特に袁世凱敵視については徹底している。要約すれば、①袁は国を売り、立憲・自由思想を弾圧し、時代に逆行した帝政に移行しつつある。袁政権の打倒。第三革命の実現。②日本の利権は西欧列強に奪われている。対華二十一ケ条要求はむしろ貧弱にすぎる。大隈外交は拙劣。③大隈は支那分割を云い袁は排日を説く。日支人民のために共に不可。支那の分割反対。④日本は支那の憲政軍を助けるべし。
 以上から本紙は、純民党主義として不偏不党を標榜しているものの、満蒙進出と支那での利権獲得をねらって袁北方政権と外交交渉をする大隈政府と異なり、南方革命軍(中国国民党)を援助しようとする日本の立憲国民党(党首犬養毅)系の新聞で、しかもその背景にはやはり市場と利権の獲得をうかがう勢力が秘められているものと考えられる。明治39年(1906年)東京に生れ26号まで存続した同盟会の月刊機関紙。「民報」とも無関係ではあるまい。
 和田三郎は、土佐山村の篤学者和田千秋の三男で、本紙当時民報社の責任あるポストにあったらしく、社の広告にその名がみえている。
 前記性格に加えて自由民権の残党の新聞たる一面をもうかがわせると同時に、小説に「勤王烈士坂本龍馬」が連載されるなど、強い土佐臭をただよわせている新聞ともいえよう。

〔残存リスト〕。
大正3年077月04日~30日(17-43号)
     08月03~05日(47-49号)、08~11日(52-55号)、
        13~19日(57-63号)、22~31日(66-75号)
     09月03~30日(78-105号)
     10月04~14日(109-119号)、17~21日(122-126号)
     11月03~05日(139-141号)、07~09日(143-145号)、
        11~19日(149-155号)、23~25日(159-161号)
     12月02~14日(168-180号)、
        16日(182号)、18日(184号)、29日(185号)、30日(186号)
大正4年01月05日~08日(188-191号)、10日(193号)、
        12~14日(194号-196号)、16日(198号)、17日(199号)、19日(200号)
        22~24日(203号-205号)、26日(206号)、27日(207号)、29~31日(209-211号)
      02月05日(215号)、07日(217号)

■(破)革史の一部分を記して切に会員諸□(破)猛進を促す
     ■(破)革史の一部分を記して、切に会員諸□(破)猛進を促す
                                  会員 岩門智
  我西川部落は遠き昔より現今に至る迄戸数三十戸有余に内外し曽て四拾戸を過ぎし事なしと云ふ。蓋部落の遺積に依りて考察するに、大てい富者にして、富者にあらざるものと云え共貧と云ふべき者無かりしものゝ如し。然るに下りて中頃に至るや皆、怠惰に流れ、昨の富者は今や貧民と化し終り、しかも自ら安んぜしものゝ如し。されど是れ豈我祖先等の特質ならんや。敢て屈するは大いに延びんが為めのみ。
 医を業となすものに和田波治氏なるものおり。常に部落の前途を憂ひて之れが救済を策せんとし、先づ自邸に寺小屋を開きて青少年を集め、和漢学、道徳礼義、其他あらゆる道話を教へ、大いに勤勉にして、家産の増殖を計らざるべからざる事を説けり。
 氏の長子を、千秋氏と云ふ。父に優れる博学多識にして、特に漢学にをいては有数の学者なりと云ふ。良く父の志を継ぎ。青少年を導くや、あたかも子の如く懇切なる指導をなせり。氏の門下には人材雲の如く輩出し(破)右維新の大変革に際するや和田氏の寺小屋□(破)をも変更せざるべからざるに至りぬ。
 和田氏門下の長足、高橋簡吉氏等卒先して師の指導の本に夜学会を起せり。明治三四年の頃遂に部落内に珍々社なる一社を設立するに至りぬ。部落内の中年青年、少年等は毎夜社中に会し学を修め、徳を積み或は討論などして、大いに自ら発展せり。
 之れ即山嶽社の前身とす。珍々社幾何も無くして廃し、山嶽社を組織せり。蓋珍々社の改称にして異名同体なり。益々社の発展に努め、毎夜社員一同必ず参社し、益々修学に力め、新聞を読みては盛に天下の大勢を討論し、昼間は勤勉治産に之れつとめ、山又山の山間僻地に於ける山嶽社は正に天下に号令せんとするが如き滔天の意気を示せり。
 青年等、常に呼号して曰く。一に学問、二に道徳、三に富力、四に腕力、此の四力を合せ有するものは来れ、始めて吾人の好敵手たらんと、当時青年の意気正に察すべきにあらずや。まことに当時の青年は学問もありき、道徳もありき、腕力もありき、富力もありたりぬ。社員の三寸の舌はよく、村治を左右し、郡会県会をも動かすに足るの実■(破)せり。
 社員中には県会議員ありたり、郡会議員■(破)りたり村会議員ありたり、村長もありたり、助役もありたり収入役もありたり、書記もありたり、教師もありたりき。其他人材雲の如く多く、正に此の二十数年間は我部落の大黄金時代とも云ふべきなり、
 蓋、西川部落異数の大発展は和田氏の寺小屋に崩芽を発し、和田千秋氏の教導大勢を定め、山嶽社に至りて大成したるものと謂ふを得べきか。然るに之れ等諸士の飛揚せんには西川部落にては余りに少なりき、諸士の大半は遠大の希望を抱きて、或は市に或は大坂に、東京に或は台湾、北海道、又は遠く北米等に移住するものありて、山嶽社勢力の大半を失せり。
 されど亦、後に残れる諸氏も覇気満々として遂におさゆる能はず資本金参万円の製糸株式会社を部落の中央に起し日夜百数十人の工女を使嗾し昼間三度雄壮なる汽笛をならし、山間老翁の耳を洗えり。
 然るに悲しからずや燈火の正に滅せんとするや其の火は燦爛たりと、西川部落の運命も其の瞬間にあらざるなきか。果せる哉正直一轍の士は遂に奸商にあざむかる処となり。ここに一大失敗を招くに至り、亦立つあたはず。
 嗚呼ヽ悲しからずや、各自の富力□(破)失し尽し果てぬ。しかも悲愁は之れにとどまらず、□(破)と頼むべき青年等は自己の本領を打わすれ、心身軽薄に流れ誘惑に打ち勝つ事あたはず、或は婦女に戯れなどして、只夜遊等を事とし、敢て夜学等を顧みるものなく、今や遂に救済の道すらなきに至りぬ、西川部落の運命や正に急転直下したるなり。
 嗚呼、我等本文を草するにあたり、筆ここに至るや、悲惜、涙を掩ひて、茫然たる事之れ久しくす。されど物、深渕に達せば静止するの外、最早浮ぶるの他ありじ。
 幸なる哉我等は曙光に接するを得たり。明治三十五年、光明正大の気象、爽朗後偉の精神、屹然として動かざる事山の如く、教育を以て自己の生命とせらるゝ救主、河渕隆馬先生を、西川尋常小学校長として迎うるの光栄に浴せり。先生甚だ多忙の身を以て、校友会、父兄会、夜学会等を起しなどして、青年の智識を進め、校下の悪風を一掃せんとさる。
 我西川青年も、菖蒲、梶谷と聯合して西川校に夜学会を開催したりしも都合ありて数年にして廃し、后西川は単独に夜学会をなしたりしも勢揚らず、昨年は亦菖蒲と聯合したりしも好結果を得ず、本年□(破)遂に青年会に夜学部を設置するに至りたる□(破)り。我等は前の大黄金時代に回復せざるべからず、否ヨリ以上の大発展を期せざるべからざる也。
 我等の前途は河渕先生の努力に依りて、己に好箇の兆朕を発見せり。東天些の光明を洩せり。更に十年生聚し、十年教訓せば、理想の楽園に達するや、敢て難きにあらざるべし、乞ふ、会員諸君一曽の努力を期せよ。(松岡)