いまごろ総選挙の争点が分かった(1)
今回の解散総選挙ほど僕を落胆させるものはなかった。絶望に近い想いがあった。民主党政権がいいわけではないが、せっかく自民党から政権を奪取したのに、また元の木阿弥かという強い思いである。90年代、細川政権は2年もたなかった。当時、国民にわくわく感があった。3年前も同じわくわく感が国民にあった。
僕の思いと多くの国民の思いが同じだったとは思わないが、霞ヶ関から脱却しないとこの国の未来はないとずっと思ってきた。何が起きても昨日までのことを明日も当たり前のように続けるのが日本の官僚政治だった。多くの若き官僚たちもそんな閉塞感漂う霞ヶ関を飛び出して政治を目指した。若き官僚たちを落胆させる政治がそこにあったからである。
共同通信社の記者としてじくじたる思いはたくさんある。大きな政治のうねりの中に身を任せたまま、数日後に発表される官僚の作文を一日でも早く伝えるのが仕事だと勘違いしていた時代があった。
違うのではないかと思ったのは1989年だった。僕は経済部長に懇願してアジア取材を始めていた。アジア経済の発展ぶりを各地に取材にして、日本にないスピード感を感じていた。アジアは心地よく変化していた。ベルリンの壁が崩壊するのに時間はかからなかった。
その時、日本は日米構造協議の最中に会った。アメリカから日本の貿易構造が変わらないのは、社会的構造に問題があるとの指摘をもとに日本経済の非関税障壁の突破が課題となった。酒がスーパーやコンビニで買えるようになったり、格安航空券が買えるようになったのは日米構造協議のおかげである。だが改革は中途半端に終わった。官僚たちは長年享受してきた霞ヶ関の裁量権を手放さなかったからである。
アジア経済はテイクオフし、ソ連を中心とした社会主義は崩壊した。アメリカもまたIT技術を追い風に新たなエンジンが動き出し、ヨーロッパは市場統合に向かって大きな一歩を踏み出していた。何も変わらないのが日本だった。変わらないのではなく変えられなかったのである。
やがて変えられない問題の根源に強すぎる官僚支配があることも分かった。変化に抵抗するのが官僚だった。(続)