新中国の生みの親、陳独秀
6月25日、上海で中国共産党第一回大会が開かれたところを訪問した。軍関係者が朝早くから並んでいた。やはりここは中国にとって聖地の一つなのである。中国共産党を生んだ李大釗や陳独秀はどういう評価になっているのかずっと気にかかっていた。展示室の中央部分に二人の肖像写真が大きく掲げられていたまずは安心した。
日本と大きく関わった人生を歩んだから特に気になっていたのだが、陳独秀は中国共産党のトップであった時代に日和見主義のレッテルを貼られて追放処分に遭っているからなおさらだ。
1879年、安徽省安慶市に生まれ、独学で四書五経などを学び17歳で郷土の「院試」に合格し秀才の名を欲しいままにした。転機は日本留学だった。1900年代初頭から日本と中国との間を何遍も行き 来した。日露戦争前後の日本は中国人留学生であふれていた。日清戦争に敗れ、近代国家を目指した康有為らによる戊戌変法は100日あまりで葬り去られた。危機感を抱いた中国青年が新知識を求めて来日したのだった。陳もまたその一人で20歳から30歳代の多感な時代の多くを日本で過ごし、日本語を通じて欧米の政治社会、科学、文学に接し、多くの同志を得た。明治末期から大正期にかけての日本にはそれだけ西洋の社会主義運動を紹介する書物にあふれていたこと を示している。
陳の中国社会への最大の貢献は1915年の雑誌「新青年」の創刊だった。デモクラシーとサイエンスをテーゼとし、文芸や社会思想を紹介する雑誌だった。また話し 言葉で文章を書く白話運動を展開、広く共感を得た。日本で言えば「中央公論」や「改造」にあたる。知識人に投稿のチャンスを与え、中国社会で初めて論壇を形成した意義は計り知れない。旧社会を批判し西洋の近代思想の紹介が主な役割だったが、やがて胡適を中心に白話運動を掲げられ、新しい文体による小説が魯迅らによって発表される場となった。1919年、李大釗らによって組まれた「マルクス特集」は中国での社会主義思想の浸透に大きな役割を果たし、多くの市民を巻き込んだ五四運動を促す契機ともなった。
現代中国にとっての貢献は1921年7月の中国共産党の誕生である。上海フランス租界の李漢俊の自宅で産声を上げた時のメンバーはたった13人だった。実は陳は当時、広東の国民党の招きで広州市にいたためその場に居合わせていないにも関わらず代表に選ばれた。共産思想の中心的存在だった李大釗もまた欠席している。13人のうち1949年の中華人民共和国誕生に立ち会えたのは毛沢東と董必武の2人だけだった。
旗を上げた中国共産党はその後、終始コミンテルンに振り回されることになる。そして陳独秀も李大釗もその犠牲になった。コミンテルンは孫文の国民党との合作を命じたが、孫文の急死によって国共合作は崩壊する。中国共産党は蒋介石によって壊滅寸前にまで追い込まれ、陳はその全責任を取らされたのである。不幸だったのは日和見主義というレッテルを貼られたことだった。
「新青年」を創刊し新文化運動の旗手としてデビューし、五四運動のリーダーに登りつめた陳独秀は1929年、自らが育てた中国共産党によって除名された。その後トロツキストとして新たに運動するが国民党に捕らえられ、釈放された後は重慶市郊外に引き籠もり、1942年63歳の人生を終えた。
陳独秀の名は世界史を学んだ日本人にとってはなじみが深いが、中国ではあまり評価の高くなかった。90年代以降になって、ようやく再評価が進み、安徽省安慶市郊外の墓は市政府によって独秀園という名の大きな公園に整備されている。