中国の改革開放路線 1992年Libre
どうやら中国にも改革開放路線が全面復活する日が近くなったようです。中国最大の実力者である鄧小平は、今年1月から2月にかけて北京から南下、改革開放の最前線の深圳市や上海市を次々と訪れ、開放路線復活ののろしを上げました。初めは静観していた北京のマスコミも、しだいに鄧小平の華南地方での去就を報道し始め、『改革開放ブーム』に再び火がつきそうな勢いとなっています。中国は年末に、十数年ぶりの共産党全国代表大会を開くことになっています。高齢に達している鄧小平としては、この大会で何としても改革派の人脈を復活させ、ポスト鄧小平を安定させたい考えなのです。もちろん党や政府内部で鄧小平の意向が完全に浸透しきっているとはいえない状況ですが、4年間の引き締め政策から脱却する道筋を模索する段階にきていることは確かのようです。
繰り返す「放」と「収」
中国の改革開放政策は1878年から始まりました。鄧小平の復活によって、中国は「文化大革命」という長い政治闘争路線から脱却、経済建設重視へと路線が転換しました。しかし、保守派との路線対立を残したままの改革開放政策は、今まで3-4年を周期に開放しては引き締めるという、いわゆる『放』(開放)と『収』(引き締め)を繰り返してきました。
85年からの『放』は比較的長く続きました。円高ドル安の進展が先進国7力国によるプラザ会議で合意され、その結果、相対的に輸出競争力か身につけた中国裂品が、世界市場へ流れ出す産業構造が生まれました。西側からみれば開放政策が定着し、外国資本の中国投資が本格化した時期です。
しかし、経済の加熱は、一方で過度のインフレを中国にもたらしました。1,000%などという中南米のインフレからみればたいしたことはなかったのですが、年率20%を超すインフレでも、中国の改革派にとって命取りとなってしまいました。
鄧小平の後継者として内外に印象づけられた胡耀邦がまず失脚、そして、改革派旗手の趙紫陽も89年6月の天安門事件で詰め腹を切らされました。インフレや汚職という経済発展に伴うマイナス面も生じたことは否定できませんが、保守派は経済改革に伴い、思想の自由化を求める声が、予想以上のスピードで中国全土に広がったことに強い危機感を抱いたのです。
趙紫陽に代わって登場した李鵬首相は、ただちに中国経済の引き締め政策を断行しました。表面的には景気の引き締め政策ですが、狙いは政治思想の締めつけだったのです。一部では毛沢東時代礼讃の風潮も生まれ、国際的には、中国社会がこのまま孤立化の道を進むのではないかという危惧が生まれました。
改革派と保守派との対立は、天安門事件という悲惨な展開も招きました。欧米諸国は即座に対中経済制裁に踏み切り、対中投資の減少は、減速状態の中国経済に追い打ちをかけました。
南経北政の構図
中国政治引き締め策によって、国営企業の自主権もかなりの部分がはぎ取られ、中国経済はかなりの部分で活気を失いました。当時、東欧諸国は社会主義の呪縛から次々と開放されるなど、世界的に緊張緩和の時代を迎えていただけに、中国の保守回帰はことさら時代錯誤という印象を西側諸国に植えつけたのです。
確かに北京を中心とする中国政府は保守化傾向を強めましたが、華南の広東省や福建省では状況がかなり違っていました。天安門事件後、半年もすると外国からの投資は回復し始めたのです。その中心は、対中経済制裁の枠外にいた香港と台湾を中心とする華僑資本でした。
西側諸国が中国への投資を減少させた中で、円高後に急激な成長を遂げた香港と台湾が一気に対中投資のトップに踊り出たのです。おかげで華南経済は、成長のスピードを緩めることなく工業化が進みました。
広東省は香港経済に完全に組み込まれ、200万人を超える中国人労働者が香港系企業で働き、広東省で生産された工業製品は、香港を通して全世界へと輸出されています。香港系の企業の中には日本など西側諸国の香港法人も含まれており、われわれが日々買物する商品の中にも、中国製が急速に増えてきていることはお気付きのことと思います。この結果、香港ドルの発行額の3分の1は、広東省内で流通するようになっています。
福建省でも同様のことが台湾資本との間で起きています。中国と台湾とは中国の主権を主張し合い、政治的には対立していますが、経済交流は別次元となっています。福建省のアモイ市や福州市では、台湾式のカラオケバーが乱立、台湾ビジネスマンが胸を張って町を闊歩しています。
南部中国が政治的に中央政府の影響力を極力排除し、開放政策を維持できたのは不思議なくらいです。中国全体の1人当たりGNPが400ドル足らずというのに、広東省あたりでは平均1000ドルを超え、都市部では2000ドルに達するのではないかと推定されています。
広大な国土と地域性を色濃く残す中国ではもはや歴史を逆行させるような政治は浸透しないのかもしれません。華南経済の成功は一方で、『もはや中国の開放政策は後戻りしない』ということを内外に印象づけた、といっても過言ではありません。
線対立は残るか
改革開放路線の復活で、まず為替の二重レ-トが廃止されました。これまで中国には為替のヤミレートが厳然として存在しました。経済の安定によって通常レートとの格差がほぼなくなったからです。都市部では日本の住宅整備公団にならって、労働者の住宅保有推進することになっていますし、農村でも同じく農協に似た組織作りを通じて、農産品流通や農業資材の普及を図る方針です。
改革派は、経済改革の第二段として中国の人民の生活向上を目指していますが、こうした改革が順調に進むかどうかは、党大会のい行方次第ということになります。
これまで中国を見る時、一番重視されたのは共産党の動きでした。この国ではいまだに民主的に選出された政府を持ちません。党がすべてを指導することになっています。そうしたことから年内に開かれるという党大会の行方に、並々ならぬ関心が集まったとしても不思議ではありません。
中国の問題は、鄧小平を含めて80歳代の高齢者がいまだに政治の実権を握っていることです。一時期、鄧小平が率先して政治かの引退を試みましたが、結局、革命世代は極力の座に居座り続けて、保守勢力を温存させてきました。今回の党大会は、鄧小平が、年齢的にも21一世紀を見据えた新しい中国ための人事政策を断行できる最後のチャンスだといわれています。保守派の巻き返しだけは避けなければなりません。(共同通信 伴武澄)