奈良の唐招提寺の本堂のどちらかの甍が唐からもたらされたものであることは意外と知られていない。井上靖「天平の甍」に書いてあるのだが、不思議なことに北方の渤海王国を経由して運ばれた。東シナ海を渡ったのではなく、日本海を渡って招来されたのである。

僕が唐招提寺を初めて訪れたのは20歳の時だった。もちろん「天平の甍」を読んでいた。境内のずっと奥に鑑真和尚の塑像があった。梅雨時の6月の2日間しか御開帳がなかった。僕以外に参拝者はなく、静かに座像と対峙する時間を経験した。その時何を考えたかは覚えていない。その後、東山魁夷がその部屋の襖絵を書いて奉納し、きらびやかな空間となっているが、当時はまだかび臭い空間であった。

インドから伝わった仏教は今のパキスタンの北部のガンダーラで仏像を生み、はるばるシルクロードを伝って中国に伝来し、それがさらに東シナ海を渡って日本に到来した。日本に仏教が到来したのは西暦500年代の後半だから、ブッタが亡くなって800年もたってからのことである。今年は2017年であるから、800年前と言えば1217年。日本は源頼朝が鎌倉幕府を打ち立ててまもなくのころ。800年かけてブッダの教えが日本に招来されたことにある種の感慨を感じないわけにはいかない。

鑑真和尚が苦難の末、日本に渡ったのは天平時代であるから、さらに150年後のことである。鑑真和尚が日本にもたらしたのは戒壇である。僧都としての資格が初めて確立したのである。その戒壇は今、東大寺の境内にある戒壇院に引き継がれている。四体の四天王に囲まれた静かな空間である。

平安時代に入って日本の仏教は神道との混交が始まり、独自の発展をみせる。最澄の起こした天台宗と空海の真言宗がその頂点となる。新興の武士たちは争って禅宗に帰依し、庶民は浄土真宗に救いを求めた。生きるために宗教が不可欠な時代が確実にあった。