先週、東京の中野ZEROで「石井のおとうさんありがとう」という映画を見て、久々に涙した。明治時代、福祉という概念さえない時代に、3000人の孤児を育てた石井十次という人物の物語である。

 石井十次のことは戦前の修身の教科書で「縄の帯」として紹介されていたから年配の方には懐かしい名前かもしれない。2月2日に書いた「ラフカディオ・ ハーンの書いた稲むらの火」でも考えたことだが、情操教育はもっぱら欧米の人物ばかりに頼ることとなっているのは残念なことだと思う。戦後教育は日本が世 界に誇りとできる人物までも消し去ったのである。  石井十次は慶応元年(1865)、いまの宮崎県高鍋町に下級武士の子として生まれ、医師となることを目指し、岡山医学校に学んだ。研修中に、物ごいの子 供を預かったことがきっかけとなって医学の道を断念、孤児たちのために一生を捧げることになる。

 孤児という言葉はいまの日本ではほとんど死語になっているが、筆者の子供時代には戦争孤児が多くいた。新たに占領軍と日本人との混血孤児も新たに生まれた。天災や貧困だけでなく、戦争もまた孤児を生む背景にあった。

 石井が孤児を預かったのは22歳の時だった。日本はちょうど憲法を発布し、立憲政治が始まろうとしていた。町にまだ電灯はともっていなかった。普通の人 でさえ日々の暮らしにあえいでいた時代であるから、国や地方行政が孤児にまで手を差し伸べることはなかった。飢饉は日常的に起きたし、濃尾大地震や三陸地 震など天災も追い打ちをかけた。

 子どもたちはどんどん増え、やがて世界有数の規模の孤児院となった。最盛期に1200人の規模になったという。石井は子どもたちに自分のことを「お父さん」と呼ばせ、妻は「おかあさん」となった。

 孤児院の経営は寄付に頼った。最大の後援者は倉敷紡績の大原孫三郎だった。アメリカからも慈善の基金が送られてきた。石井は後に自立のため事業も興し、 学校も経営した。なにしろ数百人規模の子どもたちを食べさせるだけでも大変な資金を必要とした。石井の孤児院では「満腹主義」をとった。すさんだ心を元に 戻すには空腹からの開放が一番と考えたからだった。

 映画の中で泣かせる場面がたくさんある。お父さんとおかあさんがけんかをしておかあさんが「家を出る」と決意したとき、子どもたちがおかあさんのところ にやってきて、「お父さんとお母さんは本当は仲良しなのに、ぼくたちがいるからけんかするんでしょ。だったらぼくたちが出て行きます」。町の嫌われ者だっ た子どもたちがそこまでいうのである。

 孤児院では子どもたちの稼ぎを”卒業”するまで貯金していた。ある時、子どもたちがそのお金を使いたいという。石井は「だめだ。いったい何に使いたいの か」と答える。子どもたちは「濃尾大地震で困っている子どもたちに送りたい」という。本当の豊かとは何かを考えさせられる場面である。

 この映画は現代ぷろだくしょんが昨年つくり、いまも各地で上映している。しかし、ほとんどが自主上映でしかない。これほどの物語がなぜ全国上映されない のか、こんなにいい映画をなぜ子どもたちに見せない。ご覧になった方はみんなそう思うに違いない。