北見市、現在はタマネギの最大産地だが、戦前は世界の薄荷の70%の生産地だった。薄荷はペパーミントなどシソ科の葉を蒸留して微量の油分を抽出して精製する。クスノキから生産する樟脳と同じ製法だということに気づいた。そもそも、北見市はノツケウシといっていたころ、明治30年、高知の坂本龍馬の甥、坂本直寛ら北光社の人々が入植し、発展した土地。ここに大きなヒントがあった。

 薄荷は古代から洋の東西を問わず、鎮痛、解熱剤などに使われていた。しかし、本格的に効用注目されるのは、19世紀後半から。メントールという名称が生まれたのも1861年だった。日本では明治6年、山形産の薄荷が、ロンドンへ輸出されたという記録があり、北海道での栽培は明治17年、日高門別、18年に八雲で始まり、24年に旭川で油分の多い薄荷の野生種が見つかり、入植者たちの関心を集めた。北見地区での生産は湧別で26年、ノツケウシに入植した北光社は2年目には薄荷栽培を始めている。明治44年には40万円の農家出荷額を記録したというから、すごい。現在の物価で言えば、40億円以上になる。

明治から大正にかけて北海道の北見地方などが一大生産地となり、薄荷の集荷は、横浜を拠点とする多勢、矢沢商店や、神戸の鈴木商店などが大手の薄荷商として市場を牛耳っていた。樟脳でのし上がった鈴木商店が薄荷にも手を広げていたというから面白い。ここで北光社との人的つながりがなかったはずもない。そんな想像をしてしまった。

想像ついでにいえば、北光社はクリスチャンのつながりのあった集団。北見では明治時代後半からピアソンというアメリカ人宣教師が布教にあたっていて、北光社の人々と交流があったが、一方で滋賀県の近江兄弟社のヴォ―リスはアメリカのメンソレータム社から製造権を無料でもらって、その利益で布教をしていた。大正3年、ピアソンの家を設計したのはそのヴォ―リス。メンソレータムと北見をつないだのがヴォ―リスだったとしたら面白いことになる。メンソレータム社は操業が1890年代。北見のハッカ生産開始時期と重なるのだ。