台湾、夷洲、流求、台員、大湾、高砂、赤嵌
台湾が文献に登場する最古のものは『後漢書』。「夷洲」という名で出てくる。それが『隋書』では「流求国」となり、『元史・外国列伝』では「瑠求」に変わる。そもそも中国人が台湾に住むようになるのは明末。鄭成功の時代である。その前にはオランダが拠点をつくっていた。豊臣秀吉も高山国と称して属国にしようとしたが、統治している人がいなかった。
その後台湾全体を表す地名はなく、中世に至ってから難敵(クエラン、今の基隆)、打鼓もしくは打狗(タークー。今の高雄)、鹿耳門(今の台南市安平)などの地域名が出てくる。ジャンク船や日本の朱印船が航海の途中に立ち寄りはじめて名前が必要になった。日本では台湾先住民を高砂族といっていた時期があるが、その語源は「打狗」である。今日の台湾はいつごろから「タイワン」と呼ばれるようになったのか。また、なぜ「タイワン」なのか。ものの本には、開発が最初に始まった頃のどこかの湾が台地状になっていたので、「台湾」と呼ばれるようになったなどという説が紹介されているが、これはあまりにも単純すぎる。
台湾の開発は膨湖島への漢人入植がきっかけとなり、そこから至近距離にある南部、特に現在の台南あたりから始まった。詳しい年代は不明だが、漢人がそこに入植しはじめたころ、台南一円に居住していた先住民をシラヤ族といい、そのシラヤ族の言葉で、外来者のことをタイアン(Taian)、あるいはターヤンぐTayan)と言った。それが漢人移住民の耳と口を通しタイオワン(Taiuan)と誂った。漢人移住民たちはそれを地名と早合点し、自分たちの文字である漢字を当てはめた。
明代の福建人で周嬰なる人物が著した『束蕃記』に「台員」という漢字が使用されている。これが文献で見る最初の当て字だが、周嬰は宣徳・正徳年間(1426-1521)の人で、漢人移住民がシラヤ族と接触を持ち始めたのはこのころ。その他の文献では「大湾」の文字を当てているのもある。では「台湾」はいつ頃からか。清朝が台湾統治の首府として康煕22年(1683)に現在の台南に「台湾府」を設置したのがその正式呼称の始まりである。また、康煕23年に諸羅県(現在の嘉義一帯)の知県(知事)になった季麟光が著した『蓉州文稿』の中に「万暦年間(1573-1620)、海寇(海賊)顔思斉この地に入り、初めて台湾と称す」との一文がある。「台湾」の文字を初めて使ったのは、なんと海賊だったのだ。ともあれ清朝は、慣用されだした「台湾」の呼称を公認したのである。
唐の中葉にはすでに大陸から移住民が膨湖島に入っていたことは文献からも確認されており、そこヘオランダ人が入ったのは十七世紀になってからであった。ヨーロッパの大航海時代のことで、ジャワ島に東インド会社を設立(一六〇二年)したオランダは、さらに勢力を伸ばそうと艦隊をマカオに向けた。ところがそこはすでにポルトガル人が要塞を築いており、オランダ艦隊は海上をさまよった。このとき、同乗していた漢人通訳で、膨湖島の存在を教える者がいた。オランダ人は喜び、さっそく針路を膨湖島に向けた。上陸してみると、一応開発もされており、けっこう住みよい。ここを拠点にと軍営や住居を築きはじめた。
驚いたのは明朝である。大陸沿岸住民が膨湖島に拠ったオランダ人と交易することを禁じるとともに、大軍を派遣して撤退を要請した。オランダは戦いを避け、交渉に応じた。このとき結ばれた協定が、オランダ人は膨湖島から撤退する代わりに、台湾を占拠しても明朝は異議を唱えず、大陸沿岸との交易も認めるというものであった。このことから、明朝の台湾に対する認識がどの程度のものであったか伺い知れる。
この時オランダ人が入植したのが鹿耳門(現在の曽文渓)で、一六二四年十月のことである。やがてここから台南市街が形成されるが、先住民は当時この地を「セッカム」と呼称し、漢人移住民は「赤嵌」の漢字を当てていた。だからオランダ人が構築したプロピデンジヤ城も「赤嵌楼」と呼んでいた。「台南」の地名が出てくるのは、まだ先のことである。
