再び半泥子「把和遊 喊阿厳」

久々に半泥子の話をしたい。先週、本屋で「ハングルへの旅」という本を見つけた。茨木のり子さんが50歳を過ぎてハングルにのめり込み、ハングル詩集の翻訳までこなすようになった話で、併せて、戦前に朝鮮文化を日本に紹介した浅川巧兄弟に関連する書籍も読む羽目になった。そして思い出したのが、半泥子だった。「東の魯山人、西の半泥子」―昭和初期の日本の陶工の両巨頭で、茶をたしなむ人なら半泥子の名前は誰でも知っている。半泥子が特異なのは、三重県の地方銀行の頭取でありながら、器づくりに励んだことである。半泥子にとっての陶芸は茶席に使う器を自分でつくることだった。茶席には日本の政界や経済界の有力者から近くの農民まで幅広い人が招かれた。半泥子は茶席に出す料理も自分でこなした。茶席のもてなしは初めから終わりまで自らのやり方を貫いた。帰りにその場で使った茶碗はおみやげとして持ち帰ってもらった。だから半泥子は一度も作品を売ったことがない。芸術家は作品を売ることで生活を維持したのだが、半泥子は頭取としてすでに十分な収入があったから、作品を売る必要はなかった。たぶん、津周辺には、半泥子の作品の価値など理解していない農家も少なくないから、作品がまだまだ眠っているかも知れない。
作風といえば大胆の一言。おおらかでのびやか。そしてこだわりがない。そういうことなのだ。師匠はいない。「志野」あり「美濃」あり「備前」ありで思いに任せて土をこねた。それもそのはずだ。津のあたりにはよい粘土がないから全国から粘土を取り寄せた。戦前は朝鮮半島の土も多くこねた。朝鮮の土は主に全羅南道務安郡望雲半島の荷苗里(ハビヨリ)のものだった。南宋の戦乱を避けた中国の陶工たちが多く避難した土地柄らしい。青磁づくりはすでに廃れていたが、半泥子は壊れかけていた窯を再興させたという。
ふつう芸術家は王様や財力あるパトロンに見いだされて世に出ることが多い。だがパトロン自らが芸術家になった例は洋の東西を問わずほとんどいない。宋の時代、文人画を描いた徽宗が有名だが、絵画や書は文人としての教養の範疇だった。古今東西、ろくろを回すことなどは職人の仕事だったはず。銀行のオーナーが仕事の傍らろくろを回して喜んでいたのだから風景として異景だったに違いない。
一般に芸術家は芸を売るから芸術家なのであって、どんなにいい作品をつくっても生業としなければ芸術家と呼ばれない。ここらは不思議なことだと思っている。世上、半泥子は陶工ではないから「趣味人」などと呼んでいるが、茶わんづくりに異常までの情熱をかたむけた半泥子に限っていえば失礼になる。半泥子のその芸はやはり秀でていたのだから芸術家としか呼びようがない。津市郊外の半泥子の窯跡である広永陶苑にある泥仏堂には自作の半泥仏が祀られている。その扉の裏側に「把和遊 喊阿厳」と書いてある。何と読むか。