サムライ坊主と語ろう タイ国境で孤児院を支える高知神田の住職

世界連邦運動高知支部は2012年9月、「サムライ坊主と語ろう」という講演会を開いた。高知市神田の高法寺の住職、玉城秀大さんの話だが、玉城さんはタイの辺境で孤児院「虹の学校」を経営して2年になっていた。学校の運営を任されていたのは当時、水沼朋子(現在宮崎姓)だった。その講演会のメモである。
僕はちょうど40歳になった。小さい時から泣いている子どもがいると「あれ」
10歳ぐらいのころ24時間テレビが始まった。自分が知らなかった世界があってショックを受けた。日本ではお腹がふくれている子どもなんていないじゃない。みなさんの回りでも餓死する人はいないと思う。僕の回りにもいなくて衝撃を受けた。
こういう人たちがいる、何かしなくちゃと考えた。お小遣いをかき集めて帯屋町に持って行っていた。回りのひとに世界ではこんなことが起きているって言うわけです。当時24時間テレビは視聴率が非常によかった。みんな見ているのに話に乗ってこない。「なんとかが美味しい」って話はするのだが、反応がない。そういうことにずっと疑問を持っていた。
「人は何のために生きちゅうがやろうか」「何のために生まれて、いまここにおるがやろうか」といつもボーっと考えていた。高校時代からあまり授業は受けずに本ばかり読んでいた。読んでいるうちに人は仕合わせになった方がいいと思うようになって、僕はそうやって生きていこうと決めた。
仕合わせになるためにはどうしたらいいのか。
大学時代はボクシングをやっていて、その他はアルバイトと本を読むことばかりだった。
言いにくいのだが、うちは家族が仲悪くて、家にいられないと思った。でも一人で生きていく方法が分からなくて、海外に行こうと思った。日本は何でも保証人がいる。就職するにしても家を借りるにしても保証人が必要だと思い込んでいた。もちろん橋の下に住むのにはいらないが。
パジェロの工場で働いてお金を少し集めて、中国に行った。1995年から2000年まで中国で過ごした。中国は70年ぐらい前の日本のようにすごいところで、北京の郊外のシャンシャンという町と田舎の中間、こっちをみると北京のビル群が聳えている。反対は畑と田んぼばかりの風景。
いろんな人が働いていた。隣の隣は駄菓子屋があって、夜になるとその店のテレビの前に労働者が50人ぐらい集まる。日本じゃ各部屋にテレビがある。その風景は話に聞いていた日本のレトロ時代そのものだと思った。みんなで力道山をこうやって見ていたんだと振り返った。
中国で衝撃的だったのは、お金持ちはめちゃくちゃお金がある。それは日本の比でない。逆に貧乏人はめちゃくちゃ貧乏。その格差が激しい。
僕はその北京の郊外で中華料理店をやっていた。清潔でサービスがいいということでいろいろなお客さんが来てくれた。お金持ちも来てくれたが、一本30円のビールに「何でこんなに高いんだ。27円にしろ」とか言う田舎のお客さんが多かった。中国通貨は元だが、その元の下の単位の「毛」とかいう単位で食ってかかってくる。
北京は冬場マイナス15度ぐらいになる、風も強いので体感温度はもっと低い。僕の手はあかぎれとひび割れでひどかった。
お店の裏に市場があって、僕がいつもそこで買い物をしていた。その市場でネギを売っている少年がいた。いつもこのテーブルより小さい狭い空間にいて、実はそこをねぐらにもしていた。
中国はわいろがすごくて、わいろなしには商売もできない。仕方なく僕もせざるを得なかった。何でもない野菜を売っているような普通の人も公安とかにわいろをおくっていた。わいろをしないとぽんぽん物を持って行かれるからだ。ケンカもあった。反日の風潮もあった。ある時、僕のことが日本人だと分かると「おまえは日本人か!」って暴れようとしたことがあった。僕は適当なことを言って逃げたが、翌日、隣の老班、つまりおやじさんは僕に肩を持ったおかげで、その人に切られて28針縫ったと言っていた。
その時思ったのは社会の仕組みやなってことだった。中国人はみんな素敵な人なんだが、あの社会の枠組みの中だったら、人を騙さないと生きていけない。
店には小さな子どもが花売りに来ていた。一本100円とかでバラの花を売っている。最初はドキドキしながら「これ買ってくれませんか」って可愛らしかったが、半年ぐらいたつと人格が完全に変わってしまって、バタンとドアを開けて「花買わんか」って怒鳴るようになる。初めのころは「可愛そうにな」って思っていただけに、その変貌ぶりがショックだった。たかだか数ヵ月で人間がこんなに変わってしまう社会が驚きだった。
ネギを売っていた少年はある時、お金を貸してくれと言ったので貸してあげた。だが、回りの人から「何で貸したんだ」って怒られた。少年はベルトで何度も叩かれたらしい。昔は日本にもそんな世界があったかもしれないが、たぶん中国の方がきついだろうなと思った。
田舎を回っていると悲しい話もたくさん見聞きした。田舎では生活ができない。子ども達は身売りの対象となる。ある田舎の駅前で坐っていると、パイナップルを売っていた母子がいた。娘は13歳ぐらいだった。パイナップルを買って食べながらいろいろ話をした。中国はどうしてこんなに貧富の差があるのだろうと考えていたころだった。
駅前には売春宿が多く並んでいた。それを見て、この子も将来、こういうところに売られてしまうのかなと思っていると、以心伝心だったのか、女の子が突然泣き出してしまった。それを見て、僕は苦しくなって逃げるようにその場を立ち去った。
どうせ生きるのなら、悲しいながら腹を立てながらではなく、豊かに笑顔で仕合わせを感じながら生きた方がいいと思った。じゃあ、そうするためにはどうしたらいいのだろうかということをよく考えるようになった。
タイに学校をつくったのはそんなことからだった。虹の出学校があるのはサンカブリといってバンコクから車で7時間ぐらいかかるところだ。日本人が行くタイは豊かなリゾートだが、サンカブリの近郊の山岳地は貧しい。高知生まれで高知育ちの僕は、田舎からなんとかしたいという気持ちがあった。偶然、ミャンマーとの国境のこの町とので出合いがあった。子ども達が貧しく暮らしているということを知って。何とかここから情報を発信する中で、日本人である僕たちがいろいろ考えるきっかけにしようと孤児院を始めた。
バンコクのお嬢さん学校で日本語を教えていた水沼朋子さんとも出合った。タイのバンコクで10万円以上の給料はすごくいい方だった。でも水沼さんは「志はここにはない」と感じていたらしい。能力を充分に発揮できないのではないかと思っていたという。
そんな水沼さんに「うちに来てほしい。給料はないし、休みもないけど」ってお願いした。学校だったら授業が終われば終わりだが、うちは孤児院もあるから子ども達はずっといる。僕も年に3回ほど行くが、子ども達のエネルギーってすごくって帰るとぐったりする。
水沼さん
私は虹の学校で2年間やってきた。玉城さんからオファーを受けて「よしやろう」と決めたのは、子ども達を輝かせることができる仕事だと思ったからだ。あと自給自足とか持続可能な生活ができるだろうということに引かれたからだ。
それまでバンコクで日本語教師として子ども達を教えていた。子ども達はとても可愛くて待遇もよく、何不自由なく過ごしていた。4年間やって、それでは私の夢は到達しないだろうという不満もあった。私の夢は玉城さんと同じで世界の人たちが仕合わせで、仲良く暮らせる社会をつくることだった。
そのため、日本語教師をしていたのでは到達しないと思った。玉城さんからオファーがあって、ここならきっかけが出来る、突破口になると思った。
子どもたちはとても貧しくて親がいない子もいるし、親がいても貧しくて一緒に暮らせない子ども達、また親から虐待を受けている子ども達、境遇が厳しい子ども達がたくさんいる。
初めて来た子はやはり傷を負っていて悲しい表情をしている。元気もない自信もない。そういう子ばっかりだ。だけど私たちの学校で先生達に支えられながら1月、2月もすると輝き出すのだ。本来の美しさを取り戻してくれる。それを目の当たりにして、やっぱりそういう教育が必要なのだ、そんな大人の支援が必要なのだと確信した。
九州の横峰式教育を知っているだろうか。全国でも有名な幼児教育で「子どもはみな天才」という考えのもとに子ども達を成長させる教育だ。玉城さんがぜひその教育を取り入れたいと思い、横峰先生にコンタクトを取って、虹の学校に取り入れた。その教育も功を奏していて子ども達はどんどん元気になっている。
一方、タイ文化や少数民族の文化を大切にしながら、その村で自給自足できるようなコミュニティーづくりをしていきたい。まだ2年なので虹の学校の認知度は低く、小さい範囲だが、これから徐々に大きいコミュニティーにしていきたい。
ちょうど私は手をナタで切った。枝を切っているときだ。5日入院したが、いい看護婦やお医者さんと関係できた。
サンカブリの人は純粋でいい人ばかり。穏やか。みんなで教育し合っている。(萬晩報主宰 伴武澄)