ペリー来航を事前に知っていた幕府

瀬戸内海の大崎上島に行ってきた。亡くなった友人の奥さんが一昨年、山梨県から移住したので表敬訪問した。ご近所の宮崎さんというニューヨークからの移住者の家に泊めてもらって、一晩語り合った。帰りに穂高健一さんの著作「歴史は眠らない」を貰って来た。穂高さんは大崎の出身の小説家。「歴史は為政者によって捏造される」「幕末以降に起きた事実の隠蔽と曲解」「歴史教育の歪曲こそが戦争を招いたフェイクを排した歴史的真実の側面を心踊る物語として綴る4篇はなかなか読ませる。併せてペリー来訪の幕府側の記録の現代語訳「墨夷応接録」も読んだ。幕府はオランダからペリーの来訪を事前に知っており、開国の準備をしていたのだ。
僕たちは、アメリカのペリー艦隊が1853年6月、突如として浦賀沖に現れて、江戸幕府に開国を迫ったと習った。黒船来航にあわてふためく様子を風刺した狂歌「太平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)(お茶の銘柄。蒸気船とかけている) たった四はいで夜も寝られず」は誰でも知っている。ところが、事実は全然違っていたことを最近知った。1842年、幕府は1842年、アヘン戦争の影響もあってそれまでの「異国船打払令」を「薪水給与令」に改めていた。つまり外国船が近づいたら「接触するな」という鎖国令を一部解除して、薪や水を与えてもいいと政策に変更していた。
そこへ1845年、鳥島やその周辺海域で遭難した日本の漁師22人を救助したアメリカのマンハッタン号が浦賀に現れ、漂流民の受け渡しを例外処置として認めた。さらに1846年、アメリカのビドル提督がジョン・カルフーン国務長官の親書を携えて、帆船2隻で江戸湾に来航した。親書は渡すことができなかったものの、アメリカとの”交渉”が始まる先駆けとなった。そして1849年には、ジェームス・グリン艦長のプレブル号が長崎に来航し、オランダ商館経由でアメリカ漂流民14人が引き取られた。驚くべきことは、老中の阿部正弘はオランダ商館からの報告書を通じて、外国勢力が日本に迫ってくることを知っており、1850年の別の報告書で、アメリカ議会で日本を開国しろという議論が起こっていること、1852年の報告では、翌年の春以降にアメリカの蒸気軍艦がペリーに率いられて江戸城にやってくることが報告されていたというのだ。ペリー来航の情報は、1852年夏ごろ、有力譜代大名だけでなく、外様の薩摩藩の島津斉彬にまで知らされていた。幕府はペリー来航の地を長崎か浦賀のいずれかと想定し、オランダ通詞の配置代えなど浦賀奉行所の体制を強化していた。
1853年7月8日、ペリー艦隊は、蒸気外輪フリゲートのサスケハナ、ミシシッピ、帆走スループのプリマス、サラトガ)を率いて浦賀沖に現れ、大統領の国書を渡すことを求めた。幕府は長崎に回航するよう求めたが、ペリーは「要求を拒否するならば、強力な武力をもってアメリカ大統領の国書を渡すために上陸する」と回答し、幕府は7月12日、明後日に久里浜で国書を受け取ることをペリーに伝えた。7月14日、ペリーは久里浜に上陸し、設営された応接所で、大統領の開国・通商を求める親書およびペリーの信任状と書簡を手渡した。ペリーは7月17日朝、翌年の再来を予告して江戸湾を退去した。
アメリカの国書には、日本と国交を結ぶために使節を送ること、アメリカに侵略の意思がないことが書かれ開国を求めた。そして難破船の乗組員の救出、アメリカ船への水・食料の補給、通商の開始という3つの具体的な要求項目が掲げられていた。
翌年2月13日、ペリーは再び来航して7隻の艦船が江戸湾に侵入し横浜沖に停泊した。2月22日から浦賀の応接所で、アメリカの国書への回答をめぐる交渉が始まった。交渉は難航したが、3月4日、難破船の乗組員の救助と食料・水・薪の補給だけを認めることになり、通商の開始については海防参与の徳川斉昭の強い反対のため見送った。3月4日、横浜村で協議が始まり、3月31日に全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印した。日本側の実務担当者は、大学頭林復斎だった。(萬晩報主宰 伴武澄)