大高坂松王丸の慰霊祭の意味
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2012年10月28日、高知市役所の敷地内にある大高坂松王丸の石碑前で、第10回目の慰霊祭が行われ、たまたま参列した。確か、高知市から「お供え」をいただいていた気がする。松王丸は、南北朝時代、後醍醐天皇の南朝方について戦った土佐の勇士だが、なぜこの地に大高坂松王丸の石碑が立っているのかが問題なのだ。
戦前までこの地に松王丸を祀る大高坂神社があった。昭和20年の大空襲で市役所とともに焼けてしまったが、高知市は戦後、「どさくさにまぎれて」神社敷地に現在の市役所を建設してしまった。自治体が神社の敷地を奪ってしまったのだ。その後市民の指摘というか、求めで石碑が建立されて、毎年慰霊祭が行われていた。それにしても自治体が神社の敷地を奪うとはおかしな話だ。
ちなみに大高坂という名字は高知城のある地名から生まれた。小高坂という地名もある。松王丸の時代、城が築かれたといい、長宗我部一族も一時期、この地に本拠を置いていた。山内一豊の時代に本格的城郭がつくられ、この山を河中山と命名、その後、河中山は高智山、高知山と名前を変えていった。河中は「かわうち」「こうち」と呼び代えられた。