土佐と北海道
四半世紀前の「土佐史談」の特集号「土佐と北海道」は読みごたえがあった。同じころ、筆者は農水省記者クラブにいて、「北海道が独立したら」という論考を農水省の月刊誌に投稿していた。円高で日本経済がにっちもさっちもいかない時期で日本語が通じるもう一つの国家をつくったらと妄想した。友人がそれを読んで司馬遼太郎の「燃えよ剣」が面白いよと教えてくれた。そこには江戸開城後に榎本武揚らは開陽丸を旗艦とする幕府海軍を率いて函館の五稜郭を占領し、1868年12月、蝦夷共和国の成立を宣言したことが書かれてあった。新政府に対して、700万石を失った「旧幕臣を蝦夷地に入植させ、農林漁業や鉱業などを興すとともに、ロシア帝国の南下に対する北方警備につかせることを画策したい」という嘆願書を送ったが、無視された。面白いことに、戊辰戦争で英、仏、蘭、米、普、伊の6か国は局外中立の立場をとっており、榎本らは局外中立が維持されるよう諸外国の信頼を得る必要があった。榎本らは国際法の交戦団体としては認められなかったが、1868年11月にイギリスやフランスから「事実上の政権 De Facto」に認定されている。榎本らは投票で統領選挙を行い、榎本が総裁に選ばれ、閣僚ポストも決められた。半年後の6月、函館総攻撃で蝦夷共和国は降伏した。「土佐と北海道」には龍馬が何度か北海道視察を計画したことが書かれている。不平士族を率いて北海道に建国することを夢見ていたという。甥の坂本直寛が明治30年に北見地方を開拓した話は有名な話。札幌北の浦臼を開拓したのも高知の士族だった。中江兆民は議員辞職後に北海道の新聞社に主筆として招かれ、林業で資金を稼ごうとしたが、失敗した。中浜万次郎は函館に捕鯨基地をつくろうと思い、一度だけ、函館を訪れている。川田龍吉男爵は函館ドック再建のため、函館に移り、傍ら農園を経営、そこで取り寄せたイギリス品種のジャガイモが近隣に広まっった。人々はそれを「男爵いも」と呼ぶようになって今にいたる。初代北海道長官となった宿毛の岩村通俊は、札幌と旭川に銅像が建てられている。高知と北海道は実に縁が深い、というより、日本の政治経済がここまでおかしくなった今、もう一度、北海道独立論を唱えてもいいのかもしれない。