孫文に慕われた一人の日本人 忘れ去れた高知の萱野長知(土佐史談掲載)
孫文の革命を支援した日本人といえば、真っ先に熊本の宮崎滔天、次いで津軽の山田良正兄弟、長崎の梅屋庄吉などが有名である。どっこい土佐には萱野長知があり、和田三郎がいた。
西郷隆盛や坂本龍馬らを革命第一世代とすると、自由民権運動に属するのは第二世代、そして中国革命に猛進するのは第三世代の革命家だと位置づけたい。ほとんどが自由民権の流れを受けた人々で、国会開設後に目標を失い、理想の国づくりを大陸に託したのであった。
二〇一三年八月八日、日中友好協会高知支部が主催した日中国交四〇周年記念式典で「萱野長知と孫文革命」と題して講演したことがある。通信社を定年退職して高知に帰り、明治期の自由民権運動を改めて学び始めた時に出会ったのが萱野長知だった。
孫文革命に関与した日本人について書かれたものの中に必ず出てくるのがこの萱野長知であるのだが、実は高知出身だとは知らなかった。一九四一年に『支那革命秘笈』を書き下ろしたのは胡漢民同志から「日本人の目から見た辛亥革命の歴史を書いてほしい」といわれたからだとされる。
宮崎滔天には志を同じくした寅蔵、民蔵の兄弟があり、『三十三年の夢』という著作は中国語に訳され中国でも多く読まれた。山田良政は一九〇〇年、義和団の変に呼応して孫文が起こした恵州起義で命を亡くしたものの、弟、純三郎が兄の遺志を継いで常に孫文や蒋介石のそばにいた。弘前市の貞昌寺に孫文揮毫の石碑があり、中華民国関係者の参詣する事績となっている。梅谷庄吉は香港で写真館を経営していた一八九五年に孫文と出会い、革命の資金を出す約束をし、一九一〇年代の孫文の日本亡命時代には自宅で匿い宋慶齢との結婚の橋渡しをしたことで知られるが、日中国交回復までは孫文との関係が明らかになることはなかった。
一方、萱野の『支那革命秘笈』はほとんど読まれることなく現在に到っている。しかし、一九九六年、高知市民図書館が歴史研究家久保田文治氏の協力で『萱野長知研究』『萱野長知・孫文関係史料集』という二冊の本を出版したことでかろうじてその足跡をたどることができるようになっている。この本は旧梼原村村長だった島村義郎氏が長年かけて書き綴ったものを、久保田文治氏が編纂したもので、日中関係史の秘史にあたる部分かも知れない。少なくとも萱野長知に関する唯一の研究書であることは確かなのだ。この数冊を もとに萱野長知の孫文革命とのかかわりを明らかにしたい。
萱野を呼べ
一九二五年三月、孫文が北京で死を覚悟したとき、萱野は日本にいた。孫文から二つのルートで「会いたい」と電報が入っていた。一つは梅谷庄吉ルート、もう一つは北京駐在武官補佐官の板垣征四郎からだった。萱野は北京に飛んだ。孫文はやつれていた。そして最後の会話を交わした。
「犬養さんや頭山さんは元気か。自分が神戸へ遺した演説は日本人にひびいたか」
「あの演説はラジオでも放送されるし、新聞にもみんな書き立てられたので、日本の津々浦々まで充分響きわたった」
孫文は満足そうだった。
あの演説とは一九二四年一一月、広東から天津に向かう途中、神戸に立ち寄り神戸女学院で行った「大アジア主義」の演説だった。「日本は王道を歩むのか、欧米の走狗となるのか」と日本人にアジア人としての自覚を促した最後の叫びだった。
三月一二日の臨終に立ち会ったのは妻の宋慶齢、廖仲凱、汪兆銘、山田純三郎、そして萱野だった。一九日の葬儀は北京の中央公園に遺体を安置して行われ、十二万人の弔問を受けた。有名な遺言「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」は汪兆銘が書いたものとされる。大陸、台湾を問わず中国人ならだれもが国父として慕う孫文は三五年の革命人生を閉じた。享年六〇歳だった。
萱野は孫文と出会ったころの会話を思い出していた。
「日本はアジアの番犬だ」
「番犬とはひどすぎる」
「すまん、いいすぎた。だが番犬がいないと中国は欧米の餌食になってしまう」
萱野はこの年「ああ僕等の万事は終わった」と慨嘆した。萱野は孫文の理想に共鳴していただけではなかった。その人間性に惹かれ、孫文もまた文句なしに萱野を信頼していたのだった。
国旗と紙幣
二〇世紀初頭の中国の革命勢力は三つに分かれていた。孫文の興中会、章炳麟の光復会、黄興の華興会。一九〇五年八月、それぞれのリーダーが東京に会し中国同盟会を結成し、孫文が頭目とされた。日露戦争の最中である。その場を設定したのは宮崎滔天だった。萱野はその時、中国にいたが、やがて帰国して合流した。
萱野が孫文と出会ったのはいつだったか定かでない。一八九五年、一八九七年などいくつかの説があるが、少なくとも交流のアクセルを踏んだのは同盟会が結成されてからだった。
同盟会は機関誌「民報」を編纂し、大陸各地で読者を増やしていった。萱野は高知の和田三郎、池亨吉らと月二回発行の「革命評論」を編纂した。
「革命評論」の題字は章炳麟の筆となったもの。和田は高知、共立学校の萱野の同窓生で、土曜新聞記者を経て板垣退助の秘書的存在だった。板垣家にあった『萬国秘密結社史』で孫文とその革命思想を知り、新聞の切り抜きを座右に掲げるほどの孫文ファンだった。萱野の仲介で孫文と会い、直ちに同盟会に参加し、多くの文章を革命評論に掲載した。
ちなみに当時、大陸に「中国」という言葉はなかった。欧米では便利なチャイナという表現があったが、日本では清国という王朝名で呼んでいた。だから日中戦争ではなく、日清戦争だった。革命家の一部では「満族政府」と呼ぶものさえあった。変法運動に失敗して日本に逃れた梁啓超が初めて雑誌に「中国」という表現を使い、同盟会が団体名として初めて使用したと考えている。
同盟会に加わった萱野らは孫文の依頼で「青天白日旗」をつくった。青地に白抜きの太陽をあしらったもので、一八九五年の第一次広州起義で死んだ興中会の陸皓東が将来の国旗としてデザインしたものを孫文が温めていた。和田は知り合いの染物屋に「運動会で使う」といってつくらせたというから面白い。孫文は革命軍に使用させるつもりだったが、黄興が反対したため、青天白日を左上に据えて後は赤で染め上げ、現在の中華民国国旗の原型となった。六年後に辛亥革命が成功するなど当時は誰も思っていなかったはずだ。ちなみに辛亥革命の翌年成立した中華民国の国旗は五族(中国を構成する五つの民族)を象徴する五色の横線を重ねた旗を採用した。青天白日旗誕生のエピソードは萱野の「支那革命秘笈」に書かれているが、東京で準備されていたのだった。
同盟会は決して順風ではなかった。考え方の違う三つのグループが糾合したのだから当然だ。興中会は広東省が多く、華興会は黄興の湖南省出身者、そして光復会は江蘇省、浙江省と地域的広がりが大きいだけでなく、革命に対する温度差も微妙に違った。孫文にとっての誤算は日本政府から退去要請が出たことであった。革命が日本から輸出されることを恐れた清朝政府からの強い要請があり、一九〇七年、孫文はハノイに拠点を移すため日本を発った。それでも東京は革命の資金や武器調達の拠点として重要な役割をはたした。
日本出国に際してもう一つ面白いエピソードがあった。孫文は革命資金調達のために「中華民国中央銀行」発行の紙幣を日本で印刷した。まだ見ぬ新国家名がその時決まっていたことになる。一役を買ったのは萱野だった。萱野は当時、美術印刷の妙技を有する田中昴に依頼した。田中は大蔵省の図案技師村山某に委嘱して東京巣鴨の田中の工場で印刷したが、出来上がった紙幣を日本橋室町へ荷車で運ぶ途中、その一束を落とし、紙幣偽造が警視庁にみつかってしまった。萱野はその責任者として警視庁に呼ばれ査問された。萱野は「そもそも中国に中央銀行はなく紙幣偽造ということはない」と主張して事なきを得た。
この紙幣は三〇〇万元あり、ハノイに無事持ち込まれたが、今度はフランス税関で問題となり、「革命軍の軍票」と弁解したが許されず、使う機会を失った。しかし、辛亥革命後の山東省での第三革命の時、軍票の代用として流通させたため、無駄に終わったわけではなかった。
日本時代の中国同盟会が当時、どれほどの存在感があったか分からない。だが辛亥革命が成功し、中華民国が宣言されたことによって、中国革命の起点となったことが歴史に刻まれることになった。重要なことは同盟会に数多くの日本人がかかわっていたということだ。
日清戦争の後、多くの中国人が日本に留学した。日本と中国は同じ漢字を使う国同士だったが、明治以降の日本では西欧の近代化をいち早く導入した。日本語が進化したのは、西欧の新しい概念をひとつずつ二字の熟語に翻訳したことだった。留学生たちは「翻訳された日本語」で西欧の概念を吸収し、多くの単語を中国語に持ち込んで使用した。
上海への逃亡
萱野長知は一八七三年(明治六年)高知市永国寺町に生まれた。父親新作は土佐藩上士で、幕末に蒸気機関学習のため江戸に留学、その後長崎に派遣されて、夕顔の乗組員となった。維新後は鉱山経営に乗り出したり教師をしたりしたが、その後台湾に渡り新聞を発行したという。長知は海南学校に入ったが、軍人養成の校風に合わず、ミッションスクールの高知共立学校に転校したが、そこも中途退学した。後の新聞寄稿文などによると、板垣退助らの自由民権運動に大いに影響された青年時代を送った。
共立学校を退学した萱野は大阪に出て、母方の従兄、深尾重亮が経営していた大阪時事通信社に入社した。当時の大阪時事通信社は朝日や毎日、そして中江兆民が主筆をしていた東雲新聞などに記事を配信していた。当然、兆民とも懇意になり、書生をしていた幸徳秋水とも交友を結んだ。
ここで菅野にとって転機となる事件に遭遇する。政府高官暗殺を計画した「尻無川事件」に連座した高知出身の大井善友が憲法発布の恩赦で出獄した際に血気に燃えて行動し、官憲から疑いを受けるようになり、一八九二年、逮捕を恐れて大阪を逃れて上海に渡る決意をした。
アヘン戦争以降、欧米の半植民地となっていた上海では、東京日日新聞などに記事を書きながら中国語の習得にいそしんだ。萱野は中国服を着用し、辮髪もたくわえた。そんな萱野と出会った多くの中国人は、萱野を中国人侠客と思ったはずだ。津軽の山田良政もまた辮髪をたくわえ、恵州起義で捕らえられた際、あくまで中国人だと主張して処刑された。
ちなみに辮髪は清朝を起こした満州族の風習で中国人に強要したもの。辮髪は清朝への忠誠を誓う象徴でもあり、革命を目指した中国人たちは相次いで辮髪を切った。
萱野は上海だけに留まってはいなかった。日清戦争後の中国では大きな地殻変動が進んだ。下関条約で獲得した遼東半島は独仏露によって清国に返還を余儀なくされ、ロシア軍が一気に東北三省(満州)に南下し鉄道の建設を急いだ。一八九八年、清朝の一部から戊戌変法運動が起きた。康有為や梁啓超らが光緒帝を巻き込んで国家改造を目指したが、西太后らによって「クーデター」は封じ込められた。実権を握った西太后は一九〇〇年に起った義和団の乱に乗じて列強に宣戦を布告したため、中国はかえって列強の支配が進んだ。
そんな地殻変動を体で感じながら、萱野は香港や広州にも出入りした。孫文の右腕となって活動を始めていた宮崎滔天らとの接触はあったものの、中国革命に深入りしてはいなかったようだ。
戦後、貴族院議員の推挙されたときに書いた履歴書によると、この間のことは
明治二五年(一八九三年)支那文学研究の為め渡支
明治二六年(一八九四年)帰朝
明治二九年(一八九七年)支那事情研究のため香港広東往復
明治三五年(一九〇三年)佐世保時事新聞経営
明治三六年(一九〇四年)廃業
明治三七年(一九〇五年)陸軍通訳官(拝命)
とだけある。中国革命にのめり込んだ形跡はまだない。
清朝の弱体化が進み、北京では列強の軍隊が常駐する事態になった。英仏独露日は各地で多くの租借地をつくり、鉄道敷設や鉱山経営権を取得した。
一八九五年 ロシア、三国干渉の見返りとして東清鉄道敷設権を取得
一八九八年、ロシア、遼東半島の大連、旅順を租借。
一八九八年、ドイツ、青島など膠州湾を租借。
山東鉄道の敷設権を取得
一八九八年、イギリス、山東半島の威海衛を租借
一八九八年、イギリス、香港対岸の九龍半島を租借。
香港と広州を結ぶ広九線、上海と南京を結ぶ滬寧線の敷設権を獲得
一八九八年、日本、福建省不割譲条約を締結
一八九九年、フランス、広州湾を租借
一九〇〇年、アメリカが中国の機会均等、領土保全を主張
萱野は列強による中国分割のありさまをつぶさに見ていたはずである。このまま清朝政権が続けば、中国はどうなるのか危機感が高まった。一八九〇年代後半に起きた列強による分割劇を理解しなければ、多くの日本人が中国革命に関わった背景は分からないであろう。
武昌起義
東京からハノイに拠点を移した孫文の活動は活気づいた。中越国境を中心に武装蜂起が繰り返された。萱野は一九〇七年三月、孫文らと東南アジアでの同盟会の組織づくりに乗り出すこととなり、シンガポールに向け出発したが、萱野は香港で船を下り、華南地区での武装蜂起の準備にあたった。広東省東部の潮州付近の黄岡起義が五月に予定されており、孫文から国民軍東軍の顧問となるよう要請された。この起義は失敗し、命からがら香港に引き上げた。
九月にも広東省東部欽州・廉州で起義が計画され、萱野は日本に帰って武器調達にあたった。武器弾薬を調達したチャーター船は汕尾で陸揚げする段取りだったが、革命軍との連絡の行き違いもあり、結果的に国民軍には渡らなかった。
この時、黄興はベトナムとの国境、鎮南関で清国軍と戦っていた。孫文もまたハノイから駆け付けた。革命軍の戦いはどこも芳しくなかった。一九〇七年から一九一〇まで、革命軍は黄岡、恵州、安徽、欽州、鎮南関、欽州・廉州、庚戌新軍、黄花岡と七カ所で相次いで蜂起したのだから、そのマグマは最高潮に達していたといっていい。
辛亥革命の起点となった一九一一年一〇月の武昌起義を起したのは湖北省にあった清朝の新軍だった。清朝は日清戦争以降、近代化を図った新軍を各地に配置していた。新軍には日本で軍事教練を受けただけでなく、同盟会の革命思想に染まった多くの軍人が参加していた。孫文ら同盟会の影響力は各地の新軍に浸透していた。まず広東省で火の手を上げ、揚子江流域に飛び火させる計画を進めていたが、揚子江流域の武昌で火の手が上がって各省に拡大したのであった。
起義の五カ月前、清朝は、民間資本により建設された広州―武漢―成都を結ぶ鉄道の国営化を発表。この政策に沿線の民衆が反発し、清朝は武昌駐留の湖北新軍を送り込んだ。民衆の抵抗により新軍は四川省に入ったところで阻止されただけでなかった。一〇月一〇日、武昌の残留部隊が武装蜂起し、翌一一日、武昌を占領し湖北軍政府を宣言した。武昌での約五〇日にわたる戦いは敗北したが、武装蜂起は一四省に広がり、それぞれが清朝からの独立を宣言した。
武昌での戦いでは、黄花岡起義で負傷し香港で治療中だった黄興が上海経由で武昌に向い革命軍の総司令官として指揮に当たった。萱野は友人、古屋一郎の選挙運動中だったが、黄興から「爆弾をできるだけ多量に購入して武昌に帯来せよ」との暗号電報が届き、上海で革命政権を樹立した陳其美から梅谷庄吉に「萱野を派遣せよ」との電報が届いた。
萱野は一一月一〇日には武昌対岸の漢陽総司令部に到着、黄興と起居を共にし、革命の進行を目の当たりにした。まさに男児の本懐であったろうと思う。その頃、孫文はニューヨークにあり、萱野は度々、帰国を要請する電報を送っている。革命軍は勢いを増していたが、新しい事態を統括する存在として孫文を必要としていたのだ。黄興もまた「早く孫文先生を呼んでください」と萱野をせっついていた。
革命に対して日本政府は静観する立場をとったが、上海や武漢の駐在武官との連絡を取りながら、「破壊は出来ても建設は難しい」など日本に打電し、革命に対する理解を求めている。
一二月二五日、孫文は宮崎滔天らとともに香港から上海に入った。犬養毅、頭山満も上海に到着した。孫文にとって一世一代の舞台が整った。萱野は書く。「孫文が上海上陸の時は岸辺には人の山を築いた。革命党の同志は波の如く押し寄せる内外人の知友は恰も凱旋将軍を迎える以上に建国の大偉人を歓迎した。上海在住の日本官員殊に外交官海陸軍人等、多年関係深き旧知がずらりと埠頭に現れた時の光景は実に涙ぐましき程であった」
翌一九一二年一月一日、南京で中華民国が成立し、孫文が臨時大総統に就任した。「孫文、黄興その他の要人は全部意気揚々として南京に乗り込んだ。南京は天地もゆるぐ歓声が湧いた。筆者と同乗せる張継がマルセーユの歌を高らかに歌って市街を過ぎ去った。その愉快そうな気持は今尚目にみえるようである」萱野もまた興奮の絶頂にあった日を回想している。
同年二月一二日、清朝最後の皇帝溥儀が退位した。孫文は辞任し、南京に成立した臨時参議院は袁世凱を大総統に選出した。同時に南京を首都と定め、中国同盟会は「国民党」に改組された。満州族による支配は終わったが、中国が安定するまでには数十年を要した。それだけでない。蜜月だった日中は互いに反発し、戦争状態に到る。萱野は最後まで日中間の和平を目指して努力するが報われることはなかった。
一九四六年、萱野は鎌倉市で病にふけるが、蒋介石政権からトラック一杯の医薬品が届いた。その事実は国民党政権がいかに萱野に感謝していたかを示すものだと思っている。
中華革命をくぐり抜けた萱野長知の意思
『萱野長知・孫文関係資料集』(高知市民図書館)の冒頭に、萱野が亡くなる直前に「月刊高知」に書いた「思い出」とタイトルした文章があった。最後にその一部を転載したい。
思い出 萱野長知(『月刊高知』一九四七年一月号 高知新聞社蔵)
板垣先生は、わたくしに生涯通じて忘るべがらざる金針を与えられ、わたくしはその進路を踏みはづさないよう心懸けた。世間一般、中国問題に関係するよし最大多数は帝国主義的色彩を帯びており、ミリタリズム的の理念と行動を敢てした。いわゆる支那浪人と呼ばれたものは大概軍閥の走狗であった。ことに朝鮮合邦以来、満州問題に対しても、朝鮮を延長する位の主張を持っておった。
板垣先生は常に卑近な例を引いてこれを戒められた。即ち日本は古来中国の文化をうけて来たので中国は兄分であったが、日清日露の役を済(ママ)て世界の強国となり、今では日本が兄分の位置となった。とに角、兄弟の国である、しかるにその兄の力が強いからとて弟の持っている饅頭を取あげてムシヤムシヤ食っている、弟はベソをかいて訴えているようでは、兄の資格はないので、ソンナ気持ちをもって中国問題を考えては相ならぬ。
日本内地では多数の陸軍は不必要だ。陸軍の大縮小をやらねばならぬ。四面海の島であるから国防上海軍は拡張せねばならぬ。陸軍が多ければ、いきおい、中国大陸に発展するようになる。ついに排日の種をおく、日華の平和は破れる。兄弟が垣にせめぐことになるゆえに、陸軍はむしろ中国側において拡張し、海軍は、日本側において拡張し、大陸の責任は中国側にて引受け、海軍の責任は海国日本にて引受けることとすれば、陸軍なき日本に対し、中国は恐るることがなく、海軍なき中国に対し日本が恐るることもなく日華の平和提携が出来る。侵略的野望を抱くはもっての外である。
これが板垣先生の主張であって、わたくし等を戒められた筋合である。この先輩の理念が遂行されておったら、日本はこんなみじめな敗戦亡国のうきめを見ることがなかったのである、現在の東京裁判を見て、つくづくと思いあたることが多いのである。先覚者の達見、一代華族論、神と人など読めば読む程後人をして襟を正さしむるのである。
中華革命前、孫文その他革命志士が板垣先生の門を叩いて教を請うたものが沢山ある。先生は喜んで隣邦の志士を迎え、共和政体、民主主義の必要を説かれて、革命のため邁進すべきを論ぜられ、大に鞭撻されたのであるが、その内の一人が「敵国は民度が低いから、共和とか民主とかはもう少し教育啓蒙して、国民の頭をすすめてからでないと、突然民主制を行えば戸惑うでないか」との質問をした。
その時先生は断乎として「ソンナ尚早論は革命家には禁物だ。やりさえすれば人民はついてくる。やらなければいつまでも開けぬ。いやしくも革命家が尚早など前後を考えるやうでは成功せぬ。これがよいと思えば断乎として行うべしだ。断じて行えば鬼神も避く、否ついてくるのだ」と大に激励されたのである。先生は中華革命に対して大見識をもって指導された。
或時先生は、馬鹿ちんでなければ政治家、駄目ぞよといわれた。まことに意義の深い、味のある言葉と今において大に感ずるのである。もし日本の輔弼の臣に自己の利害を超越した、捨身の人が一人でもあれば、貴衆両院議員でも、その他の有志家でも、実業家でも、文士でも、海陸軍人でも何んでも保身の術を知らぬだけの馬鹿ちんがあったなれば、日本をここまでどん底に落さなかったろうと思う。この頃の土佐は馬鹿ちんの種切れがしたでないかと思はれる。健依別、即ち和田螺川の書いた、佐野、吉松の記事が土陽新闘か高知新聞の屑かごの中にあると思う。今では遠慮もいらぬ公表してほしいのである。
わたくしは孫文と提携した当時より「国境の撤廃論」を唱道した。胡漢民など、支那の同志は、わたくしを空論家と評した。妄想狂と笑った。しかし、わたくしはこの空想を棄つることが出来ない。北京でも、香港でも公会の席において発表した。また十数年前に土佐協会の雑誌にものせたことがある。これは日本でも支那でもいずれの国でも、そのまま存在、税関という壁を撤廃して、自由貿易とし、居住その他の制限なく、国際的差別を設けず、その国に行けばその国の法律にしたがい一切勝手たるべし、但し古人「郷に入って禁を問う、郷に入って郷にしたがえ」位のところで国境を眼中に置かぬのである。これを最初中国、日本、南洋、ボツボツ拡大して世界的に提唱したいという観念であった。
この理想は「椎背図」という中国二千年前の預言書にものっている。李淳夙の蔵頭詩にも黄藻禅師の詩にも、諸葛亮の廻文詩にも劉伯温の焼餅歌にも、その他にも沢山ある、悲惨な時代を逐一示し、飛行機、潜水艇時代より日本が太平洋で惨敗の図まで出ているが、結局は世界大同と平和境となりまた変化を生ずることまで予言して、年代を記して仔々細々であるが、こんな予言などを敢て論ずるに足らぬが、実際において我国の憲法が世界に率先して軍備を投げ捨て、世界平和の魁をなしたことは真に偉大なる天祐である。或る意味において、世界指導者であって、人類救済の天業である。わたくしなどは、この新憲法を遵守して、世界的に範を示したいのである。