日本国憲法の第二十一条には

「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とある。

これは日本国政府が保障するのであって、政府が「侵してはならない」のである。そもそも憲法とは権力を縛る装置なのである。

憲法に付与された「自由」とは何からの自由なのか。政府からの自由なのである。政府発表に迎合する「集会、結社、言論、出版」に政府が反対するはずもない。つまり「反対する自由」こそが基本的人権に盛り込まれた思想であるはずであろう。報道の中立性や公正さを議論する場合、この一点を忘れてはならない。

第二次安倍政権時代、テレビ放送の公正中立をめぐって議論があった。政府自民党を批判する放送内容が問題となったのであるが、憲法は時の政府を批判する自由を認めているのだから、本来的に政府がテレビ局に対して「公正中立」を求める立場にないはずである。

そもそも新聞社は時の政府を批判する目的でつくられた。明治時代のことである。その新聞は政府から度々発行停止の処分を受けて来た。その反省から、日本国憲法は「集会、結社、言論、出版の自由」を基本的人権として盛り込んだのである。安倍政権時代の問題は憲法を無視した放送行政を繰り返した。テレビ局に対して「内容が気にくわない」と「発行停止」つまり「電波停止処分」をちらつかせながら「言論を弾圧」したのである。

結果的に起きたのは、政府に対する放送局側の忖度だった。電波を止められては飯の食い扶持を失うとばかりに、反政府的思想信条を持つ幹部を更迭し、多くのニュースキャスターが降板の憂き目に遭った。共同通信の綱領にも「公正中立」の文字があったが、政府や経済界への提灯記事ばかり書く記者はそう多くはいなかった。記事イコール「批判」だった。

新聞がなければ、田中金脈もロッキード事件もなかった。リクルート事件もなかった。そして細川連立内閣もなかったはずである。新聞・テレビ各社が競争して新たなニュースを発掘し、自民党政府を追い込んだのである。政府が「公正中立」を言い出したら、国民は警戒しなければならない。政府による「公正中立」イコール言論への弾圧と考えていい。