伴武澄(萬晩報主宰)

 南方特別留学生という言葉を知っているだろうか。かつて、戦時中の日本が東南アジアの若者を日本で学ばせる制度があり、終戦まで約200人の若者が異国の日本で教育された。現地軍が発案し、将来の国づくりを担う人材を育成しようと本気で考えていたのだ。1941年12月8日の開戦から日本軍は電光石火のごとく東南アジアを支配した。主力はマラヤとシンガポールの英印軍で、イギリスの誇る海軍の戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを撃沈、あっという間にアジア支配の牙城シンガポールが陥落、ジャワのオランダ軍はほとんど抵抗なく降伏した。当時の日本軍の進攻が、どれほど東南アジアの人々から受け入れられたか分からないが、それまでのイギリスやオランダが支配した地域で日本軍による軍政が始まった。マラヤやジャワは陸軍、そしてスマトラなどの島々は海軍が支配した。そして、ビルマとフィリピンは軍政下のもとで日本から独立を付与された。加えて、チャンドラ・ボースのインド国民軍はシンガポールに自由インド仮政府を宣言し、日本はそれを承認した。南方特別留学生という制度はそんな時代背景に生まれた。

 日本に育てられた

 物語はパリ、モンマルトルのある小さなクメール・レストランから始まる。「背筋をぴんと伸ばし、ツイードの三つ揃いのスーツに、渋いモスグリーンのジャケットとポケットチーフを合わせている紳士が日本の客を迎えた。その人物こそレストランの主、K・R・ウォンサニットだった。特別留学生2期生、カンボジアの元外交官で、ポル・ポトが政権を奪取した時から、フランスに亡命してパリに住む。平野久美子著「淡淡有情」と題したノンフィクションは2000年刊行された。副題は「『日本人より日本人』として生きた南方特別留学生」。ウォンサニットと不思議な出会いがあり、寄り添い合って生きた千代という日本人女性の半生を描いた作品だ。
 ウォンサニットはタイ国境に近いバッタンボンで生まれた。優秀な成績で寺子屋を卒業したウォンサニットは寺子屋の推薦でフランス人子弟のための教育機関リセを受験したが、「農民」であることを理由に入学を拒否された。どうしてもリセに入りたかったウォンサニットは公立学校に通い、1年後に特待生として入学を許された。
 第二次大戦が始まり、1940年にフランスが降伏すると、インドシナに大きな変化が起きた。日本軍が北印進駐を敢行した。日本はタイと秘密協定を結び、対中戦争協力への見返りとして、バッタンボンを含めたカンボジア西部の3州を取得した。その結果、ウォンサニットは「タイ人」となってしまったのだ。
 カンボジアは日本の支配力が強まったとはいえ、主権はフランスにあったが、タイ領となったバッタンボンは南方特別留学生の対象地域となった。ウォンサニットがその選抜試験を受験できるようになったのにはそんな背景もあった。タイ領となったインドシナから30人が受験し、ウォンサニットだけが合格した。ウォンサニットは貧しい農村のために医師を目指していた。「日本はフランスと違って、農民であることや貧しさを理由に差別しなかった」という。
 1943年、陸軍が設けた選抜基準は、(一)十七歳程度の年齢(二)中等学校卒業程度の学力(三)日常会話が不自由しない程度の日本語能力(四)理科系を勉強したい者、という四項目だけだったが、暗に現地の高位高官の子弟が対象となっていたため、農民出身のウォンサニットは珍しい存在だった。
バンコク、シンガポールでの研修を受け、1944年3月、阿波丸でウォンサニットらは日本に到着。上北沢にあった日泰会館で寄宿しながら、国際会館で日本語の猛特訓が始まった。翌年、東京医科歯科大学の前身、東京医学歯科専門学校に入学、医師への道を歩み始めた。日本は開戦直後、戦争の目的として大東亜共栄圏という理念を掲げていた。ウォンサニット含め多くの留学生たちは「白人支配からの脱却」という目標に共感していた。

外交官への道

ウォンサニットの運命が反転したのは日本の敗戦だった。多くの留学生が戦後まもなく帰国する中で、ウォンサニットは医者になるという初心を貫徹しようと日本に留まった。日泰学院が閉鎖されると、戦前から留学生の面倒をみてきた代々木上原の下宿に移り、生涯を共にするオカアサン、梶原千代と出会った。そのオカアサンの支援で翌年、慶應義塾大学医学部に進学を果たし内科医を目指し勉学に励んだ。51年、同大学を卒業後、奈良県の病院で研修医となった。オカアサンはウォンサニットに同行した。奈良県で彼は来日していたシアヌーク殿下との出会いからカンボジア人としての自覚に目覚め、帰国して外交官としての道を歩むことになる。
シアヌーク殿下の信頼を得たウォンサニットは1953年、カンボジアが独立すると、日本との外交関係樹立するための代表団の一員として再来日し、公使館設立に尽力した。その後、ロンドン、モスクワ、チェコスロバキア、ワシントンなどで勤務、1970年から75年までシンガポール大使を担った。ウォンサニットは未婚で、梶原千代は夫人の代わりに各国でホステス役をこなした。
順風満帆だったウォンサニットの運命を変えたのは本国での革命だった。1985年、ポル・ポト派が政権を奪取し、パリへの亡命を余儀なくされたのだった。以降、カンボジアは国際社会の荒波に翻弄され、ウォンサニットはレストランを経営しながら、いつか母国のために働くことを夢見た。

トージョウが招いた留学生

南方特別留学生は1943年4月から始まり、44年に2回目の派遣があったが、さすがに終戦の年には派遣がなかった。留学生たちは1年目に国際学友会で日本語を学び、2年目には専門学校や高等師範で専門分野を、そして3年目には大学に進学した。留学生は現地で選抜されたエリートが少なくなかった。マラヤのサルタンの長男はもちろん、独立したビルマのバー・モウ首相やフィリピンのラウレル大統領の子息も含まれていた。戦後、陸軍大将になった人、大統領顧問になった人、大学教授など様々な分野で活躍し、日本との架け橋となった人物が数多く存在していた。
共同通信社は1995年、「もう一つの自画像」というタイトルで南方特別留学生へのインタビューを含めた記事を連載した。そして翌年「アジア戦時留学生」という名で出版された。サブタイトルは「『トージョー』が招いた若者たちの半世紀」。あとがきに「日本から見たアジアではなく、アジアから見た戦後の日本を浮かび上がらせたい」と書いてある。
1995年、戦後50年を記念して、南方特別留学生の同窓会が東京のホテルで開かれ、インドネシア、ブルネイ、マレーシア、シンガポール、タイ、ミャンマー、フィリピンから約100人もの元政府高官らが集まった。当然ながら、ほとんどが70歳を超えていた。
平野久美子は書く。「戦後50年を経てなお、彼らが日本と日本人に寄せる思いは、単なるノスタルシアでは片付かない。16歳から20歳までの青春期は、自分という存在に目覚め、純粋に理想を求める時期であり教育が重要な意味を持っている。留学生たちは日本流の愛国心や道徳観をたたき込まれ、近代的な政治理念に出会い、精神的に大きな変容と遂げた。」

西洋は無敵でないことを教えた日本

日本社会の経済の長期低迷によって、もはやアジアにかまけてもいられない。しかし、1990年代にはまだ、アジアを考える余裕があったのだと、今さらながら考えてさせられている。1998年、マラッカを訪れた。国立マラッカ独立宣言記念館に「マレーシアにおける日本占領 1941-1945」と題する興味深い文書が掲げられていた。戦前のアジアからの特別な留学生に関する連載第一回の終わりにその文章を掲載したい。この文章はいまはない。

1941年12月8日、第二次世界大戦で日本軍がコタバルに上陸作戦を敢行した時、マラヤもまた影響を受けたが、イギリス軍が残したものは跡形もなく破壊された。戦艦プリンス・オブ・ウエールズとリパルズが撃沈されたことは強さを誇ったイギリスの軍紀に大きな痛手を与えた。
1942年2月15日、パーシバル将軍に率いられたイギリスが正式に日本軍に降伏し、アジアの国による新たな植民地化が始まった。日本軍の占領によってマラヤは社会的、経済的な被害を受けたが、政治的に言えばマラヤ人々にとって覚醒ともいえるものだった。
マラヤ人は、イギリスは無敵の存在と考えていたが、そうではないことが分かったのだ。言い換えれば、日本の成功が西洋列強からの独立の精神を呼び覚ましたということもできる。
(略)
日本の占領が多くの人々に経済的苦しみを与えたことも事実だが、彼らの登場と成功によってアジア人に自らの自覚が生まれた。アジア人たちは西洋人に対する自信を取り戻し、偶像化することも少なくなった。日本の力が増し、日本の影響力が強まることで、マラヤ人の独立に向けた闘争は早められたのだ
1946年2月22日、クアラルンプールでの降伏の儀式で、板垣将軍はマラヤの司令官となったマサヴィー中将に刀を捧げ、ほかの幹部たちも続いた。
日本による軍政が経済的社会的な苦難を伴ったことは確かだが、その軍政がある意味ではマラヤ人に劇的な政治変化をもたらした。日本がたった70日という短い期間でイギリスを打ち負かしたことを見たマラヤの民族主義者たちにイギリス植民地主義は無敵でないことを植え付けた。日本は負けたが、日本の占領はマラヤ独立闘争を続ける火種を植え付けたのだ。