ヘボン博士 人物往来
ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn、1815 – 1911年)。1859年、キリスト教布教のため来日、横浜で医療のかたわら英語塾を開設し、多くの日本人に慕われた。後に明治学院を創設した。
アメリカ東部に生まれ、医学を学びニューヨークで病院を経営していた。その間、アジアへの布教を志し、一時、厦門に滞在したこともあるが、妻の病気でいったんニューヨークに戻り、再びアジアを目指し、来日したのは40歳をすぎていた。
英名のヘップバーンを当時の日本人が発音できず、本人もヘボンと呼ぶことを気にせず、自ら「平文」と称した。
ヘボンに関して多くの人が知っているのはヘボン式ローマ字である。ヘボンが日本で一番力を入れたのは辞書づくりだった。それまで1603年にイエズス会が編纂した『日葡辞書』しかなかった。自ら聞き取った庶民との会話から膨大な「日本語」を書きとめ、日本初の和英辞典『和英語林集成』を編纂した。初版は1967年に出版、2万語を超える語彙があった。価格は18両ととびぬけて高価だったが、幕府の学問所、開成所は200冊も注文したというからその評判は人方ならなかった。1886年の3版では語彙は3万5千語に増え、1万8千冊の予約があった。1989年出版された「言海」は日本初の辞書といわれるが、編者の大槻文彦は、ヘボンに学ぶところが小さくなかった。「ヘボン式ローマ字」はこの辞書から生まれた。もちろんアルファベットで表記され、ひらがな漢字まじりの日本語、そして英語の意味が記されていた。序説には「いろは」と「五十音図」を載せているのが興味深い。ヘボンの辞書は単なる和英辞書ではなかった。明治以降の辞書づくりの指針となって点で、その後の「日本語」の基礎を築いてくれた恩人といっても過言でない。
1863年、ヘボンは妻クララとともに横浜に男女共学のヘボン塾を開設した。日本で英語を本格的に教えた初めての学び舎といってよく、明治期に活躍した日本人を多く輩出した。陸軍の創設者とされる大村益次郎、のちの大蔵大臣・高橋是清、外務大臣・林董、三井物産の祖・益田孝など数えきれない。ヘボン塾の女子部は、1871年(明治4年)に同僚の宣教師メアリー・キダーによって洋学塾として独立、後にフェリス女学院の母体となる。また男子部は1887年、東京都港区白金の地に明治学院を設立。明治学院初代総理に就任した。第二代総理の井深梶之助もまたヘボン塾に通っていた。
聖書和訳にも力を入れた。キリスト教禁教令のもとで、翻訳作業は始まり、ゴッドやバブテシモなど日本に概念のない翻訳に苦心しながら、1878年ようやく完成した。
ヘボン博士が来日したのは、幕府が開国してまもなく。異人に対する警戒感が強い中、ある漁民の目の治療によって、その名は江戸にまで知られるようになった。一滴の目薬治療によってヘボンは日本人に受け入れられる道が開かれたのだ。当時の日本では医学の中で眼科が最も遅れていたとされる。家の中で竈をたくため、眼病で悩む人が少なくなかった。辞書編纂に協力した岸田銀香はヘボンから処方を教授された眼薬「精錡水」の販売をはじめ、大成功した。
日本での最後の仕事、聖書辞書の編纂を終えたヘボンは30余年過ごした日本を去り、ニュージャージー州エースとオレンジに居を構え、静かな余生を送り96歳で天に召された。