黒川裕次の「物語ウクライナ」を読んでいる。その中でコサックがウクライナからどうやって誕生したか書かれている部分が面白い。以下、概略を下記に記す。

 ウクライナと呼ばれるようになるこのフロンティアは、危険ではあるが、それ以上に豊かで、魅力のある土地でもあった。一五世紀にはすでに北西の人口過密地帯からドニエプル川やその支流に魚、野牛、馬、鳥の卵などを求めて来る者があった。最初に来た者はポーランド・リトアニア領内の貧しい下級地主や町民であった。そして彼らは、はじめは数日のみやってきたが、そのうち夏の全期間滞在するようになった。また夏の期間だけ農業をする者も出てきた。そして夏が終わると魚、獣皮、馬、蜂蜜をもって家に帰った。しかしその帰途役人に分け前を取られることとなり、これを嫌って、ついには勇敢な者たちは冬も帰らないようになった。
 辺境地帯が豊かだというは尾鰭をつけて広がった。一六世紀の文献は、この地の土壌は肥えているので百倍の収穫がある、と書いている。自由と豊かさのために居残った者たちは、タタールの奴隷狩りに備えて自衛する必要があった、こうして16世紀はじめまでに彼らは武装し、組織化した。今度はタタールを襲うようになり、ロつ個人やアルメニア人の隊商を襲い、クルミア汗国やドナウ川河口のオスマン・トルコを襲うようになった。こうした人々が「コサック」と呼ばれるようになった。
 コサックという言葉は、トルコ語で「分捕り品で暮らす人」あるいは「自由の民」を意味し、以前からポロヴェツ人の間で使われていた。もともとは遊牧民族のタタールに対して使われたが、後に同じようなことをするスラヴ系の人たちに対しても使われるようになったものである。
 コサックの中にはリトアニアやポーランドの国境の守備隊や大領主の私兵として仕える者もいた。ドニエプル川の中・下流にはチェルカッシ、カーニフ、チヒリンチヒリンなど彼らが住む町がいくつもでき、これらは「コサックの町」と呼ばれた。16世紀末までにコサック町は王に任命された「ヘトマン」によって率いられた。後にヘトマンはコサック全体の首領としてコサック自身により選ばれるようになるが、当初は多くが王に任命された貴族であった。そして政府の役人でもあるヘトマンに率いられたコサックがしばしばタタールを襲った。
 ウクライナのスラヴ人に対して使われたコサックという言葉が文献上最初に現れるのは1492年のことである。それは、キエフとチェルカッシの者たちがタタールの船を略奪したとクリミアの汗がリトアニア大公に抗議し、同大公はウクライナのコサックを調べると約束したというものである。翌年ドニエプル河口にあるクリミア汗国のオチャキフ要塞を破壊したチェルカッシの代官とその配下をクリミアの汗は「コサック」と呼んでいる。 コサック町では満足できず、より大きな自由を求めてドニエプル下流に住んだ者たちは、「シーチ」と呼ばれる要塞化した拠点を作った。それが次第に発展して1530年頃に、タタールからもポーランドの役人からも安全なドニエプル川下流の急流の向こうにある川中島に主要なシーチが作られた。「早瀬の向こう」という意味の「ザ・ポロージェ」(ウクライナ語名ザポリッジア)が地名となり、その拠点は「ザポロージェ・シーチ」、そこのコサックは「ザポロージェ・コサック」と呼ばれるようになった。そのうちにザポロージェがウクライナのコサックの中心地となり、またロシアの辺境のドン・コサックなどと区別するためにウクライナのコサック全体がザポロージェ・コサックとして知られるようになった。
 政治的勢力へ成長 コサックの数が増大し、その軍事力が高まるにつれてその「遠征」も大規模になり、船団を組んで遠くコンスタンティノープルや小アジアの海岸の町をも襲うまでになった。
 ザボロージェ・シーチは土塁で囲まれ、中央には広場があり、協会、学校、武器弾薬庫、幹部の家があった。シーチの人口は通常5000人規模で、最盛期には1万人になった。軍事行動などはラーダと呼ばれる会議で決定した。コサックの首領であるヘトマンははじめはポーランド王が任命したが、日にはラーダによってえらばれた。コサックは、10人による小隊、10小隊の中隊、5中隊すなわち500人で構成する連隊でできていた。1590年代のコサック軍全体の數は2万人といわれた。
 キエフ公国がウクライナの始まりなら、コサック国家の成立はウクライナの中興だったといえるかもしれない。
 最初の偉大なヘトマンはペテロ・サハイダチニー(1614-22)。ポーランドのためにモスクワ公国やオスマンン・トルコ、タタールと戦った。1621年、ウクライナ南部ホーティンで10万のトルコの進撃を食い止めた。ローマ法王は「世界の守護者」と呼んだ。キエフの復興にも尽力、キエフ・モヒラ・アカデミー。今も下町のメイン・ストリートに彼の名前が冠せられた。このアカデミーはピョートル大帝の近代化を支えた人材の多くを輩出した。
 ボフダン・フメリニツキー(1595-1647)は軍司令官、外交官として卓越した能力を示し、初めて自分たちの国家を作り上げた。1647年、故郷の地碑林で領地を奪われたことから反乱を決意。翌年ヘトマンに選出された。タタール同盟を結び、ポーランドと戦い、一時はワルシャワに迫った。この結果「コサック国家」ないしは「ヘトマン国家(ヘトマンシチーナ)が形成された。1651年、ポーランドとの戦いが再開、タタールが戦線を離脱、総崩れとなった。周囲の国々と同盟を結んでポーランドと対抗したようと模索した。結論はモスクワの庇護を求めるという決断だった。ペレヤスラフ協定をめぐってはロシアとウクライナ側と歴史認識が180度異なる。