焦土化より降伏という選択肢はないか
この10日間、朝から晩までウクライナのことを考えている。BBCはウクライナでの戦争について、五つの結末シナリオを解説している。シナリオはまだいくつもあるだろう。僕はガラス瓶が石にぶつかっても石がガラス瓶にぶつかっても壊れるのはガラス瓶の方だという格言を信じる。ウクライナ人たちが国を守ろうと命を捧げる行為は崇高なものだと思う一方、徹底抗戦を呼びかけるゼレンスキー大統領には別の責任があるはずだ。ウクライナが焦土と化しても戦えと「命じる」権限はないはずだ。国民のために「鉾を引く」知恵があってもいいと思う。
このままでは、戦闘が長期化する。人々は食糧不足と寒さにどこまで耐えられるか。戦闘で死ぬのではない。餓死と凍死が待っているのだ。西側による武器の供与はウクライナの人々の戦闘には役立つが、戦闘の長期化という別の苦悩をウクライナの人々に与えることになる。
第二次大戦の無条件降伏の決断が半年早ければ、広島や長崎はおろか、沖縄上陸、東京空襲さえなかったかもしれないのだ。
戦争を終わらせる決断ができるのはもちろんプーチン大統領しかいないが、実はゼレンスキー大統領にもできる。ロシアによる支配を代償としなければならないかもしれない。しかし、今となっては「降伏」という選択肢はウクライナ大統領にとって最も勇気を必要とする決断かもしれない。
国家がなくなっても民族はなくならない。キエフ公国から始まるウクライナの歴史はそのことを一番よく示している。ただ、こんなことを今のゼレンスキーの周囲でほのめかしたら、直ちにスパイ容疑で拘束されることは間違いない。言い出せるのは大統領しかいない。