きょうは明治生まれの祖父の自慢話をしたい。
第二次大戦前のある年、岡山県津山市で大きな水害があった。津山税務署長だった祖父・伴乙衛(ばん・おとえ)は大胆にも被災地の農家に対して税金を減免した。農民から歓迎されたが、驚いたのは上級監督局だった。
当時の税制では農地への地租が主たる財源だった。農家の収入に課税するのではなく農地の広さ(地価)によって納税額が決まったから、不作のときや災害時の農村は困窮した。
そんな農村の困窮を予想したとはいえ、伴乙衛の取った措置は法律に反する行為だった。上級監督局はそれを「独断専行」と問題にした。伴署長の処分は大蔵省にまで上がった。
ところが時の石渡主税局長(後の大蔵大臣)は「実情踏まえた適切な処置だった」と伴署長の取った行為を是認し、「むしろ法の不備を正すべきだ」として緊急勅令発動に動いた。クビを覚悟でやったことが誉められたのだから、驚いたのは伴乙衛本人だったに違いない。
戦前は勅令という便利な法整備の手法があり、おかげでお咎めはなくなった。
伴乙衛は民業を大切にする信念の人だった。開戦の前年の昭和15年、高知税務署長を最後に円満定年を迎え、高知商工会議所理事長に転じた。津山での税の減免はいまでも関係者の間で語り継がれる。

伴乙衛(1879-1966年)税務官。明治12年12月19日、正孝、藤の二男として高知市街南奉公人町(現在の上町)に生まれた。高知県尋常中学海南学校(現在の小津高校)を出て、陸軍士官学校、次いで高等商業学校(現在の一橋大学)へ進んだが、いずれも重症の脚気で中退。学業を断念して高知税務署の雇員となる。丸亀税務監督局に転進、のち西大寺(岡山県)、宇和島、新庄(西条市)、津山の税務署長を歴任した。昭和10年、高知税務署長。高知市西町46に居を構える。15年に定年退職後に高知商工会議所理事(戦後の理事長に相当)を戦時体制による解散時まで務める。また17年、高知市会議員。30年に分離独立した土佐村田井の土佐酒造社長に就任、40年まで務め、続いて監査役。また山崎猛商店監査役を法人設立時の27年から没年まで、それぞれ務めた。父、正孝は土佐藩御馬廻。維新後は謡曲師範であったことから、謡曲をたしなみ、また税務署時代にはチームを編成して野球、山登りなどスポーツにも興じた。昭和41年12月25日没。87歳。妻は藩の御殿医の家系を継ぐ山本雄秀の三女美(よし=美智子)、長男・正一は外交官。中国公使を最後に政治の世界に転進した。