北九州、出雲、熊野をつなぐ論考

 資料を整理していて面白い論考に出会った。古い資料なので出典が分からないのが難儀だが、備忘録として掲載しておきたい。

 スサノオが子のイタケルとともに朝鮮半島から渡って来る時、多くの樹種を持ちかえり。イタケルは女兄弟二人と力を合わせ、紀伊の国に樹木を繁茂させたとの記述(日本書紀)もある。
 紀州熊野市にはイザナミ神を祀る花の窟神社があるが、その地は有馬村で、有馬氏は出雲から移ってきたという伝承がある。
 出雲の熊野には「有馬氏というのは、もともと出雲の炭焼きを業とする集団で、縄文晩期(BC4-5世紀)に大挙して紀伊に移住した」という伝承があり、朝鮮から出雲東部に渡来した有馬氏がスサノオ信仰を持ち、これを紀伊に伝えた、とする説がある。
 紀伊半島西部に有田川が流れ、紀州みかんで有名な有田市がある。この有田の名もきわめて出雲的な名前である。この名前が統計的に東出雲に多いという調査結果については。前項「出雲族の関東への移動」を参照されたい。)
 しかも加えて、市内には延喜式内社の須佐神社も鎮座している。
 これらのことから紀伊熊野と出雲熊野のいずれが古いか、いずれからいずれへ信仰が移っていったかは明らかであろう。
 そして、考えてみればこの問題については江戸時代中期、古事記の研究等で名高い本居宣長が、紀伊の国の熊野と出雲国意宇郡の熊野の地とは同名で、速玉大社や韓国(からくに)伊達神社など同名の神社の多いことなどから古代出雲族の一部が移住してきたと、すでに述べていた。
 それではこの問題は全て納得かというと、出雲の前は熊野はどこにあったかということがもう一つ気になってならない。
 熊野の姓は、もともとは北九州の漁村に多い、というレポートを読んだ。
 そういう意味で気になる神社がある。福岡県春日市の須玖岡本遺跡の熊野神社だ。この遺跡からは中国鏡約30面、銅剣、銅矛、銅戈(どうか)など多数の副葬品とともに甕棺墓が発見された。奥野正男氏は「年次的には邪馬台国時代より250年以上昔の弥生中期の奴国王墓で、その次が金印をもらった王である」としている。
 この神社の祭神はイザナギ・イザナミニ神で、この境内に王墓はあった。
 これらのことから、もともとは熊野信仰も北部九州から出雲へ伝わり、さらには紀伊へも伝わったのではないかとさらなる憶測を展開させているところである。

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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