世界史に名を残す偉大なアレクサンドロス大王と名もない海賊という不思議な組み合わせのやりとりは、古代ローマの哲学者キケロが自著の中で言及し、のちに、キリスト教新学者の聖アウグスティヌスが「神の国」の中で引用している。

 大王と海賊のやりとりについて、アウグスティヌスの記述を見てみよう

(ある海賊が捕らえられ、アレキサンドロス大王の前に連れて来られた)大王が海賊に「海を荒らすのはどういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆するところもなく、「陛下が世界を荒らすのと同じです。私は小さな船でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」と答えたのである。

 今の言葉に翻訳すると、世界的大艦隊を持っているアメリカの棟梁は大統領と呼ばれる。そうなると世界史を見る目は大きく変わってしまう。盗賊が皇帝や王様になった歴史なのだと認識すれば、面白い。そもそも盗賊に歴史を編纂するような余裕はない。その代わり、皇帝や王様になった人たちは自らを正当化する歴史を編纂したがる。

 民主主義の時代になって、「人民からの簒奪」が終わったと考える人々が増えて来た。おっとどっこい本当に時代は変わったのだろうか。僕が生きたのは東西冷戦というアメリカとソ連が対峙する時代だった。両大国が直接戦火を交えることはなかったが、それなりにけん制し合いながらそれぞれの主張が「両立」していたため、あまりあこぎな振る舞いを控えていた時代でもあった。それがソ連邦の崩壊によって、アメリカ一強の時代に入ると、あこぎな資本主義が復活してきた。商人たちが1000年贅沢しても使いきれないそれ以上の富を集めるようになった。100年前、アメリカで独占を禁止する考えが台頭して個人への富の集約をさせないというある種、健全は思想が発展したが、それも今はない。強欲事本主義が復活していることは確かであろう。

 ヨーロッパでは重商主義の時代から、国家への金貸し業が肥大化していた。戦争するためには金が要る。しかし国家には、つまり王様にはその金がない。そうなると銀行家が国家に金を貸す。それにより国家は戦争が可能となった。戦争というのものは勝っても負けても国家は「儲かる」ものではない。メンツだけのために戦争が繰り返された。そのため多くの命が失われた。そもそも国家はメンツのために戦争をしたがる体質がある。でも結果的に戦争をするたびに儲かるのは商人たちだけであった。

 戦争となると、国家は背に腹は代えられない。弾丸や飛行機のために「言い値」で武器を調達する。商人から買わざるを得ない。だから戦争になると市場機能が働かなくなる。アメリカが10年に一度は戦争をしているのは、そうした商人たちが「戦争」をけしかけて来たからではないか。そんな思いがしないわけではない。

 多くの国では、誰かが大統領になるために商人たちは多大な金銭的応援をする。その見返りは必ず得なければならない。世界中で戦争を続けているアメリカにおおくの最貧層が存在する。そんなおかしな社会現象が起きている。にもかかわらず歴代のアメリカ大統領はそうした事態を解決していない。そうなると、2000年以上も前のアレキサンダー大王の時代より、おかしいことが起きているのではないかとさえ思えてしまう。

 個人の命が虫けらのような時代だったより、おかしなことが頻発しているのが21世紀だとしたら、人類の歴史は大きく退化しているはずだ。