6月11日(金)はりまや橋夜学会
テーマ:民主主義の主は誰か
時間:午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

チャンドラ・ボースの物語を「自炊」しながら、「市民とは誰か」(佐伯啓思著、PHP新書)を読み直している。副題は「戦後民主主義を問いなおす」である。その中で近代国家は「祖国のために死ぬ」という観念が必要だったことを問いかけている。戦前の日本国家はまさにそういうことを国民に求めた。戦後の日本社会はその真逆をいっている。国家とか国旗とか国歌に対する忠誠心を教えなくなった。左翼勢力が台頭し、特に教育の場で「国」と名の付くものを拒否してきた。日本で「国」が意識され始めたのは1990年代に入ってからである。小沢一郎の『日本改造計画』ベストセラーになり、その中で「普通の国家」が論じられた。きっかけは1992年のイラク戦争であろうと思う。国連による多国籍軍に参加できなかった日本に対する国際的風圧が高まっていたのである。それまでの国際社会は米ソ陣営の冷戦構造に組み込まれていた。その冷戦が崩壊して、イラクによるクウエート進攻があった。国際社会はイラクの挑戦を「危機」ととらえたのに対して日本は武器を取って「貢献」できなかったのである。国際社会といってもアメリカ主導であることは間違いなかった。だが、当時、アメリカの掲げた「正義」が果たして正しかったかどうか、今考えると議論が分かれる。星条旗とユニオンジャックの掲げる正義はほぼ同じだったが、他の主要国の正義と対立する場面が頻発し始めたからだ。

近代社会の成立前からわれわれ人類は戦争ばかりしてきた。歴史の教科書を思い出してほしい。権力の争奪、つまり戦争そのものが歴史だった。もちろん経済や文化の発展も書かれてあるが、歴史書のメインテーマは「戦争」である。近代社会成立の前後の違いはそれまで漠然としていた国民とか市民という概念が人々を拘束し始めたことである。ナポレオンが三色旗とラ・マルセーユを掲げてヨーロッパを震撼させたのは、国王ではなく国家のために戦う志願兵が現れたからである。

近代社会が多少でも進歩したのは体制や資本家に対抗する組織が生まれたからであろうと思っている。労働組合や市民活動グループのことである。市民革命の流れを受けていることは確かであろう。彼らの掲げた「正義」は社会福祉制度の充実など数多く取り入れられたことは確かだ。問題は「正義」は一つでないことだ。特に国家の掲げる正義は国民や市民に犠牲を強いるものとなっている。それでも、人々を感動させる愛国者の物語も存在するのだ。