6月19日(金)の夜学会
テーマ:代議政治とは何か
時間:午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

父親に言われたことがある。
「民主主義って分かるか。民が主ということだ。一億人が住んでいて、その国をみんながそれぞれ俺のものだと考えればどうなるか。そんなことはありえないと思わんか」
「大正時代に民本主義という言葉がはやされた。さすがに明治憲法下で民主といえなかった。だからデモクラシーという言葉を民本という言葉に言い換えたんだ」
最近、「代議政治」という本を読んでいる。1979年、花岡薫という逓信省に勤めていた役人がその晩年に書いた本だ。日本では衆院議員のことを代議士と言っている。代議という日本語は「代議員」と「代議士」しかしらない。現在多くの国で導入されているのは民主主義ではなく「代議政治」なのだということを改めて知らされた。
ギリシヤの直接民主議時代ならともかく、何千万、何億という人口を抱える国が直接民主主義を行えるはずがない。今多くの国で行われているのは民主主義ではなく「代議政治」なのだということをあらためて実感している。
たった30万人の高知市であっても代議政治なのだ。昨年4月の市議選に立候補した実感として考えたことは「1800票あれば当選できる」ということである。高知県で衆院議員に出ようと思ったら最低でも5万票が不可欠で、ある意味では組織がなければ当選はおぼつかない。よっぽどの風が吹かなければ5万人の人に僕という人間を知ってもらうことはできない。だが1800人なら顔と名前だけでなく、自分の思いを浸透できるかもしれない。そう考えた。それでも落選したのは自分の訴える力が足りなかったのだと反省した。
市会議員ならともかく、国政となるともはや民主主義など存在しない。ならば、名前を変えた方がいいのかもしれない。そう考えた時にぴったり来ているのが「代議」という言葉である。理想を捨てたわけではない。もっと現実的になった方がいいのではないかということである。
もうひとつ分かっていないのが合衆国初期の「共和派」「連邦派」の違いだ。狭義の共和主義は王様を戴かないこと。アメリカでの連邦派は中央政府に権限を集中させようとする考え。議論の積み重ねの中から現在の共和党と民主党が形成されていった。しかし、天皇制を戴く日本では「共和」の議論はなく、連邦についてもほとんど議論されたことがない
日本の民主主義が未成熟なのは、自ら勝ち取ったものではなく、戦後、アメリカに「与えられた」ものだという考えがある。いまからでも遅くはない。日々、我々が何げなく使っている政治用語の意味合いから始めてもいい。今日はみなで「民主主義」について考えましょう。