租税はふだん聞き慣れたことばであるが、「租」と「税」と分けると別の意味があるのだそうだ。律令制度の時代の話である。小堀邦夫氏『伊勢神宮のこころ 式年遷宮の意味』を最近読んでなるほどを思わされることが多くあった。その一つが「租」と「税」だった。

 租庸調はワードでも一発変換できる。律令制度時代の税制であることぐらい中学生でも知っている。租庸調のうち「租」はおコメで納めるもので、「庸」は労働力、「調」は絹などの特産物である。だがそこに「税」という文字はない。律令制度で「税」は特別の意味を持っていたのである。

 延喜式に伊勢神宮は20年に一度建て替えることを定めてある。

「太神宮は、廿年に一度、正殿と宝殿及び外幣殿を造り替へよ。(その経費は)神税を用ひ、もし神税足らずんば正税を用いよ」と書かれている。ここでは「租」と言っていない。わざわざ「税」と言っている。

 小堀氏によれば、「税」は租を貯えたものであると解説している。少し古いが養老令の税についての定めについて「穀物類が祖として役所に納められ、穀倉で 何年か保管されると税と呼びます」と説明している。養老令の「蔵倉貯積条」に「凡そ倉に貯み積まむことは、稲、穀、粟は九年支へよ。雑種は二年支へよ、糒 (ほしい)は廿年支へよ」。

 糒(ほしい)は飯を干したもので乾飯((かんい)ともいう。現代のアルファ米に似たものでお湯で戻して食べ る。コメを蒸して飯とし、それを寒風で乾らすことによって、重さは軽く、体積は小さくなるため貯蓄にすぐれた資源だった。糒は旅の常備品だけだったのでは なく、飢饉のときの備蓄米でもあったのだ。

 日本の古代における租税制度のすごさはまさに「税」にあったといっても過言でない。2年、9年、いな20年という長いスパンで備蓄して、それこそ「想定外」の事態に対応するものだった。昨今に政府とは発想がまったく違う。

  天明の飢饉を目の当たりにした米沢藩主の上杉鷹山はその2年後に、「二年間に籾米五千俵、麦二千五百表ずつ、二十ケ年の間相備へ候様」と命じた。50年後 の天保の飢饉で一人の餓死者をも出さなかった話は有名だが、古代の律令時代の「税」の発想が1000年後にも記憶されていたといっていい。いまの霞ヶ関官 僚と民主党政権に煎じて飲ませてやりたい。

 実は、小堀氏が言いたかったのは、なぜ式年遷宮が20年に一度なのかという疑問に対する根拠 についてであった。古代において、20年備蓄する糒は高床式の校倉に貯えられていた。神税はまさに糒のことであって、20年ごとに入れ替える。想定外のこ とがなければ、めでたく新しい造営の費用がまかなえることになるというのだ。がってん! がってん!

 【解説】その後、こんな興味深い解説がありましたので紹介します。      http://shimo.exblog.jp/6536521/

 租税の「租」と「税」 民主党は租税特別措置(租特)の必要性を検討するために実施した聞き取り調査の結果だそうだ。租税特別措置とは、本来納めるべき税金をおまけする優遇措置、国税分だけで300近くもあるという。 ところで、租税の『租』はどんな字だろうか。ついでに『税』についても考えてみよう。一対で見たほうが面白いから。 まずは「租」 『租』は、「禾」(稲)の形と「且」(物を高く積み上げた形)との合わせ字。 収穫した作物を、上にどんどん積み上げるように次から次へと徴収するお米。説文解字(許慎)には「田賦」とある。すなわち、年貢米のことです。 では、「税」のほうはどうか。 『税』は、「禾」(いね)と「兌」(よろこぶ) の合わせ字。 もとは、小作人の収穫から刈り分けて納めさせる稲を「税」といいましたが、いつも、渋い顔で年貢を取り立てる役人でも、米を見ると喜ぶということで「ねんぐ・税」の意味を表しました。ふつう、年貢としては、「米、麦、大豆」などの作物を納めました。 時には、こうした皮肉も言いたくなりますよね。その上、これだから下村式の漢字は面白いし、子供に喜ばれて学びたがるわけです。