霞山会主催 津軽シンポジウム  2018年4月28日 萬晩報主宰 伴武澄

 ◆はじめに

 明治維新が成功したのは、アメリカで南北戦争(1861-1865)があり、ヨーロッパで普仏戦争(1870-1871)があったおかげではないかと考えることがある。列強が東アジアに殺到し、虎視眈々と権益を拡大させていた時代に、列強の介入もなく、明治政府を立ち上げられたのは、東アジアにおける力の空白がもたらしたからではないだろうかということである。

 この間、日本にとって最大の脅威はロシア一国であった。1855年の日露和親条約で、江戸幕府は初めて外国との国境画定を余儀なくされた。千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれたが、樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。それまで“化外の地”という概念であった蝦夷地(北海道)を含めた北方の地の所管が大きな課題として表れてきたのである。

 明治に入っても朝鮮半島をめぐり日本とロシアの確執は続き、日清戦争に続き日露が直接戦火を交えることになる背景には19世紀から20世紀初めに到るロシアによる急進な南下圧力が大きく影響している。

 我々が学んだ歴史はペリーの来航によって日本が開国したことになっているが、ロシアはその以前に度々、日本に使節を派遣している。最も有名なのは漂流民、大黒屋光太夫を伴って1791年に根室にやってきたプチャーチンである。1806年には同じく漂流民をともなったレザノフが長崎に来航し通商関係を求めるなど、幕府にとってロシアの南下が最大の外交問題となっていた。

 ロシアの南下に危機感を高めた幕府は松前藩に依存していた蝦夷地の支配を、幕府直轄とし、津軽藩や南部藩に警護を命じている。もともと北東北はアイヌの居住地で、アイヌを通じた北方貿易も盛んだった。 青森へ何度か足を運んで、津軽など北東北はロシアの脅威を歴史的に最も体感していた地域なのではないかと思うようになった。 青森は津軽海峡をはさんで、蝦夷地とヒトとモノの交流が盛んで、黒龍川流域のオロチョンなど山丹交易に象徴されるように蝦夷地を含めた北方の地は津軽にとって生命線のひとつだったと考えれば分かりやすい。

 つまり津軽が明治以降、新しい思想を受容してきたバックグランドとして、歴史的に“外国”に接し、強烈な危機感を内在していたという歴史的事実を見逃してならないのである。内田樹は『日本辺境論』の中で日本自身を“辺境”と呼んでいるが、日本の辺境が日本歴史にもたらした役割を今一度考えなおす時期がきているのではないだろうか。

  ◆山田良政・純三郎兄弟

 弘前市の浄土宗の古刹、貞昌寺には孫文と蒋介石によって書かれた石碑がある。それぞれ山田良政、純三郎兄弟に贈られたものだ。1971年まで中華民国と国交があった時代が、新大使が赴任すると必ずこのお寺にお参りするのが慣例になっていた。国交断絶後、台湾と弘前との関係は疎遠になっていたが、90年代に民間の孫文研究家、寳田時雄氏が、孫文による山田良政の碑文を拓本にとって台湾政府に届けたことがきっかけとなり、双方の往来が復活した。 日本の自治体として台湾との結びつきが強いのは金沢市と弘前市が双璧である。金沢市は昭和初期に台湾南部に当時としてアジア最大のダムを建設し、現在も地元農民から慕われる八田與一の出身地が欠かせない。弘前市は山田兄弟の孫文革命への貢献に加えてリンゴの輸出が大きく影響している。青森のリンゴの台湾への輸出が急増したのは1990年代。一昨年には150億円近くに達した。2016年の東奥日報の企画記事では「山田兄弟が台湾との結びつきの立役者」と書いている。

 山田良政と純三郎は宮崎滔天や萱野長友らとともには、孫文革命の烈士として中華民国の歴史に名前を刻まれている。この中で実際に銃弾の下をくぐった日本人は良政と萱野だけである。そして自らの命まで失ったのは良政だけである。 山田良政は1900年の恵州起義で捕らわれ、最後まで「清国人」であることを主張して、銃殺された。孫文の革命で死んだ最初で最後の日本人といっていい。1918年、広東で中国国民党を“再立ち上げ”した後、自ら揮毫して良政の遺族に贈ったのがその石碑だ。

 山田良政が中国に興味をもつきっかけは、幼少時から慕っていた陸羯南の影響だといわれている。上京した陸羯南が新聞日本を発刊し、アジアにおける日本の役割を強く打ち出したことは、関門を問わず明治の知識人に大きな影響を与えた。良政陸の勧めでまず北海道昆布会社に就職。上海支店勤務となって中国とのかかわりがスタートした。ちなみに昆布は江戸時代から長崎を通じた中国貿易の主力商品の一つだった。

 日清戦争では上海で習得した中国語を駆使し通訳として従軍した。戊戌の政変で失敗した梁啓超を日本に脱出させた一団に加わったこともあった。 日清戦争と日露戦争をはさんだ時期はアジアの歴史にとって大きな転換点となった。日本が大国であった清国とロシアを破ったこともそうであるが、アメリカが米西戦争を起こし、グアムとフィリピンをアジアへの橋頭保として領有したのが1900年。同じ1900年、深刻では義和団乱による外国人排除の行動がきっかけとなり、北清事変が起き、列強の軍隊が首都・北京を占領。ロシアは事実上、満州の支配権を握った。つまり、長年にわたる清朝の支配が屋台骨から揺らぎ、列強による中国大陸の分断支配が本格した時期でもあった。

 良政は1899年に一時帰国していた時、東京で孫文と出会い、革命への熱情に心揺さぶられ、急速に接近する。たった2年足らずの付き合いで革命にのめり込み歴史にその名を遺したのだった。 1900年、南京同文書院が設立されたとき、山田良政は短期間ではあったが教授として参画した。当時、孫文は革命のため武器と資金を切望していた。良政は台湾の後藤新平を頼り、武器供与と資金協力を依頼した。

 寶田時雄氏が良政の甥で蒋介石に重用された佐藤慎一郎からの聞き書き「請孫文再来」によると  山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。

「武器とお金を用立てて欲しい」

 革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。

「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」

「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」

「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」

 この武器供与計画は日本の政権が山形有朋から伊藤博文に変わって頓挫。恵州起義は失敗に終わる。1900年という年は北方で義和団事件が起きて列強による軍事的介入が強まる引き金となった。ロシアは自国民保護を理由に満州を軍事占領、事実上“領土化”した。日本政府は一時期、孫文への協力を通じて大陸南部への影響力を強めていく姿勢であったことは確かなようだ。

 ◆山田良政石碑建立に際しての哀悼文

 君の兄弟は、ともにふるって嘗って力を中国の革命事業に致す。しかるに君は庚子(1900年、明治33年)。恵州の役を以て死す。後十年にして、満州政府は覆える。  初め余は乙未(1895年明治28年)、粤(広東省)を図りたるも威らざるを以て海外に走る。(孫文は、11月12日神戸着)。  すでに休養すること 、党力復び振るう。余は乃を鄭士良をして、 を率いて先ず恵州に入らしむ。余は日本軍官多人と偕に、香港より内地(中国大陸)に潜注せんとす。(山田)君は、実に随行せんとす。巳は 密告し、陸に登を得ず。乃ち復び日本に往き、転じて台湾に渡る(9月28日、台湾基陸着)。 時の台湾總督児玉(源太郎)氏は、義和団乱を作し、中国の北方は無政府状態に陥りたるを以て、則ち力めて余の計画に賛し、且つ後援を為すことをもかぶと允す。 余は遂に鄭士良をして、兵を発せしむ。士良を率い、出て新安、深 を攻め、清兵を敗り、 その械(武署)を獲る。龍図・淡水・永湖・梁化・白芒花・三多祝などの処に転戦し向う所みな捷つ。遂に新安・大鵬を占領し、恵州海岸一帯の沿岸の地に至る。 以て余と幹部人員の入ることと、武器の接済(供給救済)を待つ。

 図らずも恵州の義師(義兵)発動して旬日にして、日本政府更換し、新内閣總理伊藤(博文)氏(10月19日、新内閣成立)の、中国に対する方針は、前内閣 (山県有朋總理)と異なる。則ち台湾總督を禁制して、中国革命党を通じることを得ず。また武署の出口(輸出)及び日本軍官に投ずる者を禁ず。 而して余の内渡(中国大陸潜入)の計画は、之が為めに破壊す。 遂に(山田)君と同志数人を遣わして、鄭軍に往きて情形と報告させ、その機を相して便宜に事を行わしむ。(山田)君は間道して恵州に至りしも、巳に事を起こしてより後三十 日に在り。 士良の部る(統率する)ものは、連戦月。幹部軍官及び武器の至るを渇望すること甚だ切なりき。 忽ちにして君の報告する所の消悉(消息)を得。 巳むを得ず、 を下して解散し、間道して香港に出ず。随う者なお数百人。

 しかるに君は路を失い切なるを以て、清兵の捕らえる所と為り、遂に害に遇う。外国の義士にして、中国の共和の為めに犠牲となりし者は、君を以て首めとなす。論ずる者は、みな恵州の功無くして、非戦の罪を曰う。 日本政府をして、やはり前内閣の方針を守らしめなば、則ち児玉氏、中変(途中にして変更)するに至らざれば、即ち我が為めに援助せず。しかし武器の出口(輸出)及び将校の従軍者を禁制と為さざれば、則ち余の内渡(中国大陸に渡る)の計画は破れず、資けるに武器を以てし、また兵を多く知る者之が為に指揮せ んか、まさに士気(高揚し)、鼓行(堂々と進軍)して前まん。

 天下のこと しかも革命軍はして、この挫折無かりせば、則ち君は断じて以て不幸にして (殺さ )せらるるに至らざること、抑も論を持たず。然るに君は、曽ひ政府の 厭(革命軍に対する好悪の態度)を以て意と為さず、命を みて険を冒す。 死すると も辱じず。以てその主義に殉ず。 によくなし難くして貴ぶ可き者なり。 民国成立して七年。君の弟山田順三郎始めて君の骨を以て帰りて葬る。 今また君の為めに石に み、以て後人に示す。 君の生平(平常)の (正しい道にかなった行い)は、君の親族交遊、よく之を述ぶ。 余の言を■と無し。余は君を重惜(非常に惜しむ)す。故にただ君の死に至りし本末を挙げ、表わして之を出すのみ。 更に祝を為して曰く。願わくば斯の人の中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神は、なお東(日本)に於て嗣ぐもの有らんことを。

 ◆山田純三郎と孫文

 山田純三郎は良政の8歳違いの実弟。同じく東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船に勤め、次兄晴彦とともに上京して青森のリンゴ販売をしていた。本当は札幌農学校に行きたかったが果たせなかった。その後、良政の薦めで南京同文書院に入学、同文書院が上海に移ってからは教授となった。1900年8月、孫文が兄良政を訪ね、恵州起義計画を相談した時、純三郎は初めて孫文に会った。日露戦争では通訳として従軍。1907年、東亜同文書院に復職したが、やがて満鉄に入社、三井物産上海支店内に満鉄駐在員事務所を開設。孫文革命を支援するようになる。

 純三郎に対する孫文の信頼は絶大で、純三郎も常に革命派の傍らにあった。孫文の晩年、神戸女学院で孫文が最後の演説「大アジア主義」を披露した時も同行し、張作霖との会談や吉田茂奉天総領事との会談を準備するなど最後まで孫文に尽くし、1925年、孫文が息を引き取る際にも立ち会った。  戦後、台湾に渡った蒋介石を訪問した日本の国会議員団が、終戦時に「徳を以って怨みに報いる」と感謝したところ、「私に礼はいらない、あなた方の先輩に言ったらいい」と、盟友山田をはじめとする辛亥革命に命がけで闘った日本の先覚者を、あな た方日本人は忘れてはならないと議員を諌めている。

  ◆アジア主義の系譜

 アジア主義という概念ほど定義が難しいものはない。竹内好は「たとえ定義は困難であるにしても、アジア主義と呼ぶ以外によびようのない心的ムード、およびそれに基づいて構築された思想が、日本の近代化を貫いて随所にしていることは認めないわけにはいかない」(竹内好編集『現代日本思想体系9アジア主義』)と言っている。  学生時代から折に触れてアジア主義を素材に取材・執筆してきたが、明治期の自由民権運動についても定義が難しいと感じている。双方に共通しているのは、薩長を中心として藩閥政治への反発、統一国家の誕生によって生業を失った旧武士階級の不満などで、列強によるアジア進出などに対して、「アジアとの連携」がうたわれた。  アジア主義の原型とされた樽井藤吉著『大東合邦論』(1893年)がある。ユニークなのは明治期において、日中韓の連邦論を提起していたことである。アジア主義の源流はそれよりもずっと前、1980年、長岡護美や曽根俊虎らによって興亜会が結成され、後に東亜同文会に合流する。興亜会には清国公使などの中国の有力者たちも関与した。長岡は熊本の細川斉護の六男で外交官、後に貴族院議員となった。曽根は米沢藩士に生まれた海軍士官。日清の理解を深めるために1880年に中国語学校を開設した。

 アジア主義の特徴は中心がないことである。かつて霞山会の「Think Asia」に「目薬が奇縁となった日中交流史」というタイトルでエッセーを書いたことがある。日本のジャーナリストの草分けの一人、岸田吟香が、「精奇水」という目薬を売り出した。横浜にあったヘボン博士の「和英語林集成」の編集に協力し、同博士から点眼薬の処方を教えてもらった。岸田は1877年、銀座に楽善堂を開店、1880年には上海そして漢口にも支店を設けて大陸に販路をひろげたが、この楽善堂こそは荒尾精ら大陸に関心を持つ人々の集まる場所となり、中国の生の情報拠点となった。

 荒尾精は1890年、中国貿易の実務者を養成する日清貿易研究所を上海に設立した。興亜会も日清貿易研究所も岸田の援助なくしては成り立たなかった。明治期のアジア主義者のパトロンの一人は岸田だったといっていいのかもしれない。  漠然としたアジア主義のネットワークに参画したのが、頭山満、犬養毅、内田良平、宮崎滔天、萱野長友といった面々である。山田兄弟はアジア主義者として描かれることはない。心情はともにしながらも、孫文革命にあまりにも傾倒しすぎていたからなのかもしれない。行動の軸足は日本ではなく大陸にあったからであろう。

 山田兄弟とともに、孫文革命の銃火をくぐった萱野長友は1940年に『中華民国革命秘笈』を著す。1925年、孫文の死後、胡漢民が「君しか革命の歴史を書けない」と言われ、著作を始めたが中座していたものである。  1895年、日清戦争後に広州で革命起義から始まり、幾多の失敗を繰り返しながら1911年の辛亥革命に到る孫文革命の意義と経緯を克明に記している。孫文の革命については中国語にも翻訳されて広く読まれた宮崎滔天の『三十三の夢』が有名だが、革命の背景をこれほど詳しく記したものはない。この間、数十人にわたる日本人がそれぞれの場面で重要な役割を果たしていることが分かる。  『中華民国革命秘笈』については定年後、高知に帰省してからその存在を知ったのだが、『「中華民国革命秘笈」の研究』という研究書が久保田文治氏によって高知で出版されていることを付け加えておきたい。

 ◆付録・キリスト教とリンゴ

 明治になって日本各地にいくつかのキリスト教団(バンド)が形成された。有名なのは、札幌バンド、横浜バンド、熊本バンドである。札幌はメソジストのクラーク博士の教えのもとに内村鑑三や新渡戸稲造らがいた。不思議なことに国立の札幌農学校はキリスト教教育を許していたことである。横浜は長老改革派のヘボン博士を中心に英語学校を経営、弟子に岸田吟香らがいた。ここで日本初の和英辞典「和英語林集成」が編纂された。熊本勢は熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗した。海老名弾正、徳富蘇峰ら多くは後に京都に同志社を設立した新島襄らに参画した。

 津軽では藩校を継承した東奥義塾の菊池九郎の要請でアメリカからジョン・イングが英語教師として赴任、後に青山学院を設立する本田庸一らとともに弘前バンドと呼ばれた。山田良政も東奥義塾で学び、イングの影響を受けた一人である。津軽でも同様だった。新渡戸稲造が『武士道』を書いたように、質素、倹約といった新教の教えが武士道にあった質実剛健といって考えと似通っていたからだろうといわれている。

 古来日本にもリンゴはあったが、食用ではなく、観賞用として栽培されてきた。食用の洋リンゴは明治以降、日本に持ち込まれたもので、一説によるとイングらが持ち込んだものとされ、その後、士族を中心に栽培が始まり、弘前の農業を支える一大産業に発展する。山田純三郎が東京で一時、リンゴを販売していたことは奇縁であろう。

【参考文献】

岡井禮子『孫文を助けた山田良政兄弟をめぐる旅』彩流社

寳田時雄『請孫文再来』

萱野長友『中華民国革命秘笈』

久保田文治『中華民国革命秘笈研究』など