鄭成功 人物往来
鄭成功(1624-1962)明末、福建省を拠点とした海商、鄭芝龍と平戸の松浦氏の武士田川氏の娘マツとの間に誕生。幼名は福松。明王朝の復権のため尽くし、王朝から「朱」の国姓を与えられたことから国性爺と呼ばれた。江戸時代、近松門左衛門が鄭成功の生涯を描いた「国性爺合戦」を上演して、日本人好みの役柄が人気となった。晩年、台湾に拠点を移して明朝復権を目指したため、大陸で敗れて台湾に渡った蒋介石政権は自らの立場を鄭成功に重ね合わせることで「英雄」に祭り上げた。
17世紀初めの東アジアは満州族のヌルハチが兵を挙げて後金国を打ち立て、北京を窺う勢いを示す一方、大陸では李自成が挙兵、北京を陥れ、崇禎帝が自殺した。東シナ海ではポルトガルやオランダなど西洋勢と日本や大陸沿岸の海民が貿易で覇を争っていた。1939年の鎖国令まで、平戸は中国人による貿易の一大拠点だった。
そんな乱世に登場したのが、風雲児、鄭成功だった。7歳にして父の故郷アモイに戻り、15歳で学生員の試験に合格して科挙の第一関門である「秀才」となり、21歳の説き、南京の太学に入るなど科挙を目指す文人だった。しかし、大陸の情勢は鄭成功に学問の道を目指すことを許さなかった。
父、芝龍はジャンク船1000艘を有し、南シナ海の覇権を握る一人だった。当時の権勢はオランダ人の書いた「バタビヤ城日記」にも詳しく書かれている。そんな芝龍を頼りにした明朝は「福建都督」に任じた。しかし、清国の勢いが南部にまで及ぶと、清側になびいた。これに対して鄭成功は明朝の遺児、朱聿鍵(永暦帝)を擁立して戦った。
鄭成功の軍団は一時、大陸沿海部と揚子江下流を勢力範囲に収める勢いを見せ、1658年には兵力11万人、艦船290艘をもって南京城に迫ったが、清朝の軍事力に及ばなかった。1662年、オランダが拠点としていた台湾のゼーランジャ城(安平城)を占領して勢力の立て直しを図ったが、翌年熱病により死去した。抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれたが、反清復明は果たせなかった。
鄭成功は度々、徳川幕府に対して援軍や援助物資を懇願する「日本乞師」を繰り返したが、鎖国を建前とする幕府は黙殺した。しかし、歴史書には南京攻略戦の軍団の中に「鉄人5000人」という表現があり、その主体は日本武士だったとしておかしくない。鉄人は「鉄製の甲冑を着、同じく鉄製の面頬を顔につけ、斬馬刀という長い刀を振り回して、専ら敵の足を切り、清軍を大いに悩ました」とされ、甲冑武者らしき姿が描かれているという。(寺尾善雄『鄭成功』東方書店)
台湾はその後、日本が統治するまで約200年間、清朝の福建省の一部として統治され、福建省を中心として移民が移り住む地となった。台湾にとって、鄭成功はオランダ人を一掃した歴史的人物であり、反清復明を貫いた忠臣であることが強調され、台南市には鄭成功祖廟がある。日本からみると、明末に活躍した風雲児に日本人の血が流れていて、近松文学の素材となった点で、近しい存在でもある。
興味深いのは鄭成功には出国を許されなかった次郎左右衛門という弟がいて、その子孫は代々、長崎で通詞役を担わされ、明治になっても中国語通訳として外務省に勤めた。明治21年、鄭永慶という人物が日本最初の喫茶店を池之端で開いたということである。(萬晩報主宰 伴 武澄)
(注意:国性爺は「姓」ではなく「性」が正しいそうです)