周作人(1885-1967)文豪、魯迅の弟。日本に留学、日本文学に傾倒し、陳独秀らが創設した雑誌「新青年」の中核メンバーとして自ら創作する一方、日本始め海外文学の翻訳、文芸評論家として名をなすが、日中戦争後も北京にとどまり、日本側に協力したことから、解放後は対日協力者「漢奸」として逮捕された。その後、出獄したものの、名誉を回復することなく不遇の中で死去する。

 浙江省紹興の旧家に生まれ、南京の江南水師学堂を経て、1906年から日本留学。立教大学では英文学とギリシャ古典文学を学び、西洋の文芸思想から個人主義と人道主義の影響を強く受けた。1905年、東京で孫文らによる中国革命同盟会が発足し、魯迅とともに大いに刺激を受ける。

 1911年に帰国するが、辛亥革命が起きて、清朝は崩壊。周作人は浙江軍政府の教育司や省立中学の英語教師などで生活を支えながら創作活動を開始する。文壇で頭角を現わすのは五・四新文化運動の最中。
 生涯、約三千編の散文を書き、『知堂回想録』など三十冊の作品集を出版し、文壇に新風を送り、多くの読者を魅了した。

 1917年、北京大学の学長、蔡元培から国史編纂所の教授として招かれ、魯迅と共に住んだ八道湾は、上海の内山書店とともに、一風変わった文芸サロンとして日本の文壇との交流の場ともなった。

 当時、北京の朝陽門外で孤児たちの学校を経営していた清水安三は『石ころの生涯』で自らが連れて行った日本人として「田山花袋、芥川龍之介、林芙美子、片山伸ら」の名前を挙げている。

 日本の文壇では、坪内逍遙や二葉亭四迷から始まり、有島一郎や谷崎潤一郎、永井荷風に傾倒。川柳という日本独特の文学についても研究を深めた。戦前、数多くの中国人留学生が日本で学んだが、周作人が知日派の第一人者であったことを忘れてはならない。

 友人、郁達夫によれば、周作人の作品は「筆の走るままに任せ、初めて読んだときは散漫としているが、子細に読んでいくと、一語一語に重みがあり、一篇の中の一語を減じても、一語の中の一字を換えても文章がならないのを覚え、もう一度初めから読みたくなる」と批評している。また、魯迅を「動」の作家とすれば、周作人は「静」の作家とも評されている。

 面白いのは、日本語、英語だけでなくスペイン、ロシア語なども堪能で、エスペラント語を操ることもできたことで、日本で新宿中村屋に滞在したこともあるロシアの盲目の詩人エロシェンコを八道湾のサロンに住まわせ、執筆活動をさせたことでも知られる。

 今年、5月、周作人の遺族が島崎藤村や武者小路実篤、谷崎潤一郎ら日本の文豪ら送った手紙やはがきなど1500点以上が保存していることが分かった。文化大革命時に、自宅にあった書簡はすべて没収されたが、その後遺族に返還されていた。公開されれば、周作人と日本の文豪との交流史が新たな側面が明らかになることは確実だ。(萬晩報主宰 伴 武澄)