李垠(1897-1970)大韓帝国最後の皇太子。称号は英親王。李王朝の高宗の第7子として生まれ、純宗の時、皇太子となるが、10歳の時に日本留学。日韓併合で李王朝がなくなり、終戦で独立後も王制は復活せず、失意のうちに死去した。赤坂プリンスホテル旧館は李垠殿下の住まいだったものを、実業家の堤康次郎が戦後に買収し、殿下にあやかってホテル名にプリンスをつけた。

日本留学は1907年。伊藤博文の建議によるもので、すでに日本は朝鮮を併合する考えであったため、皇太子を日本の皇族として育てることとなった。学習院、陸軍幼年学校、陸軍士官学校で教育を受け、1920年には梨本宮方子様と結婚、二人の男児をもうけた。政略結婚であったとはいえ、方子様は李垠につかえ夫妻円満だったようだ。長男李晋が誕生した時、日本のマスコミはこぞって「日朝融和のシンボル」として大きく取り上げた。
日本は日韓併合後も、李朝王室を廃止することはなく、引き続き昌徳宮は王室の住まいとしてあり続けた。しかし、韓国側からみれば、李王朝の皇太子が日本化することは耐えられない屈辱だったはずだ。
不幸は突然訪れた。1922年、家族で京城訪問した。夫妻にとっては”凱旋”の旅でもあった。王公族との会見など二週間にわたる行事が韓国式によって続いた。すべての行事が終わったその日、長男の李晋は突然、嘔吐し翌日死去した。当時、もっぱら暗殺説が流布された。

1919年、韓国では日本からの独立を目指した独立運動があった。三・一運動とも万歳事件とも呼ばれる。ソウルで崔南善によって独立宣言書が読み上げられ、デモには多くの市民が参加、数カ月にわたって朝鮮半島全域で展開された。運動は日本の弾圧によって沈静化されたが、吉野作造など知識人の一部から、日本の朝鮮統治に反対する動きもあった。

李垠殿下は陸軍で順調に昇格し、宇都宮歩兵第59連隊長、北支那方面軍指令部、近衛歩兵第二旅団長などを歴任。李王朝の世子として1926年、李王(李家当主)を継承し、何度も京城を訪問している。

日本の敗戦になって、李垠殿下の第二の不幸が訪れる。日本国憲法によって天皇親政が終焉する
とともに皇籍を失い、同時に日本国籍をも失ってしまった。

日本の支配から離脱した朝鮮は南北に分断され、1948年、南部で大韓民国が建国されるが、初代大統領にはアメリカが保護していた李承晩が就任した。いったん日本によって断絶された李王朝が復活するはずもなく、無国籍となった李垠殿下は日本への協力者として帰国すらも許されなかった。李垠夫妻に大韓民国の国籍が回復するのは戦後17年も経た1962年だった。

翌年、李垠殿下は在日56年の生活を終えて、韓国に帰還したが、すでに病重く、1970年、薨去された。葬儀は昌徳宮で大韓皇太子の礼をもって執り行われたのがせめての救いだった。ソウル郊外の金谷にある李朝陵墓に眠る。

李垠殿下の薨去後、妻の方子様はソウルに留まり、余生を障害者のために尽くしたことで有名。薨去後、李王垠伝記刊行会が「英親王李垠伝」を刊行したが、二男の李玖が「父を語る」という文章を寄せている。

「『英親王が最も頼りにされたのは明治天皇、昭憲皇太后、伊藤博文公で、少なくともこのお三方は幼かった英親王に愛情を注ぎ、皇太子(大正天皇)と同格に教育の方針を考えておられたと思う』という本書の指摘が、多くの事実の中から、実感として理解できるように思う」(萬晩報主宰 伴武澄)