賀川豊彦の『荒野を叫ぶ声』という小説を自炊中。日本青年が旧満州に渡って父親を探す場面がある。時代は1920年代と思われる。そこには当時の満州のショッキングな情景が描かれていた。
————————————————–
  凍死者の群

 冷たい冷たい灰のやうな粉雪が、ちらちら降ってゐた。汽車の外は零下回十度に近い。胸を劈(つんざ)くやうに寒烈な大気が満洲の大地を凝結させてゐた。 鼻や口から出て来る息は勿論のこと、目から出て来る涙まで、上下の睫毛が一緒になって凍結した。鼻毛は凍って棒のやうになり、口からばかり息をしなければ ならなくなった。毛皮の外套を持ってゐない山根文雄は、磯貝から羊の毛のつゐた支那服を借りて、二等車に乗込んだ。乗客の一人であった日本人が、支那の山 東移民がレールの両側に、凍え死んでゐるのを指さして、呆れはててゐた。文雄は全く胆まで冷やした。
「何しろ、支那はもう革命が十数年つづいてるんですからね、みんな平和な満洲を慕うて、山東省の方から、満洲の奥地へ奥地へと逃込んで来るんです。毎朝毎 朝芝罘(チーフー)から大連の陣頭に着く、支那人の数だけでもそりゃ、大変ですよ。汽船会社などは山東移民を、十三人一噸として運んでゐるのださうです。 まあ少い時で三千人、多い時には毎朝五千人、六千人と埠頭に着きますがね、そりゃ全く物凄いばかりです。それがあなた、鍋釜から蒲団まで、背中に担うて やって来るんですよ。満鉄は汽車の割引をして、一人四円五十銭で六百五十哩を運んでゐるのださうです。ところがその四円五十銭の無いものが多いので、みん なレールを伝うて、雪の中を辿って行くんです。そしてあんなにみんな野たれ死にするんです。最初はみんな一緒になって行くんでせうが、三日、四日と歩いて ゐるうちに、腹は減るし、食物はなくなるし、誰もくれるものがないから、たうとう飢と寒さに負けてしまって、あんな風に死んでしまふんですよ。中には阿片 が切れて、死んでしまふ人間もあるらしいですなア。この間うちは、長春のステーション前などに、何百という死骸が積上げてありましたなア」
 その男は誇らしげに、満洲の風物の変ってゐる様子を、雄弁に物語った。
「え! 何百って?」
 文雄は、一つの凍死した死骸を見るだけで胸を轟かしたのに、幾百という凍死者の屍を、而も長春の駅前に晒してあるということを聞いて、全く驚いてしまった。
「そりゃ人道問題ぢゃありませんか」
 文雄は、前半身を前につき出して、その男にいうた。
「支那には人道問題などいうことはないですよ。人間が余ってるんですから少し位死んだって何でもないんですなア。とにかく大正九年の直隷省の饑饉の時など は、北京で、子供一匹六円で売って居りましたからなア。それも、自分の子供を籠に乗せて、売って廻るんですから徹底していますよ。餓死さすより人手に渡し て、命だけ助けてもらふ方がいいですからね、自然売るやうになるんでせう」
 朝降ってゐた雪が、列車が長春に着く頃になると、からりツと晴れ亙って長春の街は眩しいほど日が輝いてゐた。長春の街は遼陽とちがって、ずゐぶん活気が あるやうに思はれた。馬の首に鈴をつけて、橇を引張らせてゐる支那人が、大勢竝んで客引きをしてゐた。文雄は三等客の連れが、物珍しげにしゃべってゐた、 凍死者の屍がどこにあるか見やうと思って、その辺り見廻したが、どこにも見当らなかった。橇を引張った馬が勢よく走る。そして、馬の頚に結んだ鈴が、冴え きって乾燥した空気を揺がせて、勇ましく響いた。遼陽に比べて、自動車の走ってゐる数が多かった。太陽の照ってゐる加減でもあったか、いつもと比べて今日 は、比較的暖かかった。