佐川町から夜学会を広めたい
高知県佐川町で観光協会事務局長の公募があり、僕も応募した。給与は月36万円で、住宅付きであるから、田舎の町での条件としては破格である。だが、それ以前に僕自身が佐川町には因縁を持っていた。日本の公共事業の泰斗、広井勇である。数年前まで広井勇生誕地以外に顕彰するものは何もなかった。海外にも知名度の高いこの偉人の顕彰を通じて佐川町を日本の公共事業の発祥地として広めたかった。一次の書類選考は自信があったのだが、選に漏れたという連絡があって落胆した。備忘録として応募書類に添付した作文を掲載したい。
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佐川町から夜学会を広めたい
中山間地における地域観光の可能性について
伴 武澄
平成27年1月22日
定年後、高知に帰れば何か役に立つこともあろうと、安易な気持ちでUターンした。新聞記者としての人生はいったん終わり、何か新しいことにチャレンジしたいと考えた。翌年、中山間地というより山地に近い土佐山アカデミーが開かれ、第二期生として参加した。高川地区で若者たちと共同生活をし、三カ月、座学とフィールドワークをこなした。山暮らしの極意はなんでも自分でこなすということだった。毎日が目新しく面白かった。
しかし、地域に役立つほど何かをつかんだわけではない。山から下りて何も役立たない自分を自問する日々が続いた。そんな中で、アカデミーの仲間たちが炭を焼こうと立ち上がり、木炭焼きを始めた。山を元気にするのが目的だった。古老たちの力添えで、カシの切り出しから火の管理まで、四回ほどの試行錯誤を繰り返した。
炭を焼くことはかなり覚えたが、問題は「売ること」だった。木炭の普及に熱心な高知市内の燃料屋の主人が「はりまや橋商店街の金曜市で売ったらどうや」と提案してくれ、さっそく、露店を開いた。商売は初めてで、買い物客との対話に戸惑うこともあった。
一カ月で木炭はそこそこ売れるようになったが、それで生業にするにはインパクトが足りない。またもや自問とする日々を送ることになった。
ある時、ひらめきがあった。商店街に空き店舗があり、1日5000円で貸し出していた。友人の村島さんがそこでケーナ音楽を始めたところ、人が集まり始めた。それを見ているうちに「そうだ、ここで夜学会を始めれば、何かが始まるかもしれない」と考え始めた。
高知になにがあるか。世間では龍馬とカツオのたたきが人気だ。歴史上のアイドルと食い物である。そうではない。高知が高知らしかったのは、意外にも学びの土地柄だったことを思い出した。日本の自由民権運動は高知県内各地に澎湃として誕生した夜学会を素地としたはずだった。明治維新が明治日本の第一弾ロケットだったとすれば、自由民権運動はその発展の第二段ロケットとなった。
佐川町は幕末多くの志士を生んだ土地柄である。維新以降は世界的植物学者、牧野富太郎と世界的シビル・エンジニア、広井勇を育んだ。佐川町は明治日本の第三弾目のロケットも準備していたと考えればいい。牧野博士についてはいまさら語る必要はない。広井博士は札幌農学校の第二期生として土木工学に進んだ。小樽港建設により評価を高め、日本の近代土木の祖となった。加えて評価したいのは、三人の世界的土木技術者を育てた功績だ。台湾で巨大な潅漑ダムを建設し台南地方を緑野に変えた八田與一は台湾の教科書で恩人として教えられている。青山士はパナマ運河の一部を設計した技術者として名を残した。久保田豊は満州(当時)と朝鮮の国境を流れる鴨緑江に当時としては世界最大級の発電ダムを建設し、今も中朝の重要なエネルギー源として知られる。地球規模の志の遺伝子が佐川町から発信されたと考えたら気宇壮大になる。
そうした人物を育んだ高知県に再度、活性を取り戻すには「学舎」の復活が不可欠だと考える。明治14-15年に高知県で150カ所を超える夜学会が存在した。全国広しといえども当時、学舎がこんなにあったところはない。
中山間地には基本的に何もない。しかし、高知県の中山間地にはかつて夜学会という「学舎」が点在し、人々を励ます原動力となっていたことを思い出したい。
今回佐川町が観光協会事務局長を公募するという情報に接し、ぜひとも佐川町から夜学会を広めたいという思いが沸き立った。町が元気になれば、「なんだ、なんだ」と近隣の市町村が面白がる。近隣市町村が面白がれば、四国の市町村が興味を示す。そんな連鎖が万が一広がれば、地球規模の関心を呼ぶ。
いま何もない佐川町にこれから、人を呼び込むには「佐川町はなにしゆうぜよ」と外から関心を抱かせるような発信力が不可欠なのだと思う。佐川町には名教館という格好の場所が復活している。