賀川豊彦との出会いは2001年12月だった。東京・元赤坂にある財団法人国際平和協会の事務所を訪れ、戸棚にあった機関誌「世界国家」を読み始めたことがきっかけだった。

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 終戦の8月、賀川豊彦は東久邇稔彦首相に官邸に呼ばれて、参与になることを求められた。戦争で傷ついた日本を再生するためにグランドデザインを描いて欲しいと要請されたのだった。賀川は直ちにそれまで協力を仰いでいた有力者たちに声をかけ財団法人国際平和協会を立ち上げた。そのメンバーのなんと華麗なことにびっくりした。
 国際平和協会は「戦後の日本が国際復帰を図り、世界の恒久平和樹立への貢献する」ことを目的に東久邇殿下が5万円の基本金を出資して生まれ、1946年4月13日に財団法人として正式に認可された。
 創立時のメンバーは賀川豊彦理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄、河上丈太郎が連なっていた。日本の労働組合の創設者、久留米藩、尾張徳川家の当主、著名な法学者、元宮内庁長官、外務省事務次官、三井家当主、元社会党委員長の衆院議員――そうそうたる顔ぶれだ。
 もともと「世界国家」は国際平和協会の機関誌として発行されていたが、1948年8月6日、広島原爆3周年記念日を期して「世界連邦建設同盟」が結成されてから、世界連邦運動を強力に引っ張る牽引車に生まれ変わった。
 賀川の運動の片腕の一人、村島歸之によれば、「従来の啓蒙宣伝本位のものから、実践運動の報告を主体としたものに変貌し、稲垣氏らの内外の世界連邦運動ニュースが精彩を放った。世界連邦運動は燎原の火のように日本各地に広がっていった」ということになる。
 第二次大戦後に世界連邦運動が世界的規模で強力に推進されていたことを知ったことは大きな驚きだった。世界連邦を単なる夢物語だと思っていた僕の目を驚きの次元へ次から次へと開かせてくれたのが機関誌「世界国家」だった。
 世界の有力者たちの多くが本気で世界連邦を考えていたのだ。世界本部がロンドンにあり、後にノーベル平和賞を受賞するロイド・ボアが会長を務め、シカゴ大学総長のハッチンスが世界連邦憲法草案を書き上げ、アメリカを含め世界各地に世界連邦宣言都市が相次いで誕生していた。その有力者の一人に日本の賀川豊彦という存在があったことも僕のインスピレーションを大いにかき立てた。
 「世界国家」の誌面には知らない終戦直後の歴史が次々と書かれてあった。フランス、イタリア、デンマークの新憲法は世界連邦への主権委譲を書き込んでいた。シューマン・プランなるものが欧州石炭鉄鋼共同体につながったという話は特に新鮮だった。戦勝国の外務大臣が欧州の戦争の大きな原因だったアルザスの鉄と石炭を国際管理しようと言い出すのだから腰が抜けるほどの驚きである。
 賀川はこの機関誌に毎号、精力的に執筆した。特に1949年以降は筆が踊り始めていた。戦前にアメリカで出版した「Brotherhood Economics」は協同組合的経営で世界経済を再構築すれば、貧困が撲滅され、世界平和をもたらすことが出来るということを書いていた。賀川の政治経済社会論の集大成だが、まさにそのような世界を実現できる機運が生まれていたのだから当然である。
 賀川は生物学から原子物理学に到るまで知る限りの知識を駆使して、世界はダーウィンの『進化論』が描く弱肉強食の世界ではないことを繰り返し書いた。弱いものは弱いながらも力を合わせて生きてきた。タコが甲羅を脱ぎ捨てることで逆に億年を生きてきた「進化」の過程を書いた。賀川は「なぜ人類だけがそれをできないのだろうか」という思いだったに違いない。
 賀川は愛に生きたイエス・キリストはもちろん、アッシジのフランシスカン、戦争を拒否して流浪したメノナイトの人々、第一次大戦で敵をも愛した看護婦カベル、北氷洋の聖雄グレンフェルなど愛に生きた過去の人々の物語も多く紹介した。僕にとっては初めて知る物語だった。多分、多くの読者にとっても同様だろうと想像する。
 この「世界国家」はもともと機関誌に1947年から57年までに掲載された賀川の論文、エッセー、詩の中から武藤富男が『賀川豊彦全集』のために編集したものである。今回のデジタル版では全集に掲載されなかった連載「世界連邦の話」などを加えた。
 賀川の世界連邦運動のピークは1952年、広島で開催した世界連邦アジア大会前後であろうと想像している。しかしこのアジア大会開催の様子は世界連邦建設同盟の新聞「世界連邦新聞」に記載されていて、機関誌の「世界国家」にほとんど記述がないのが残念である。
 表紙は1952年の機関誌を元に制作した。(2013年8月20日)