霞山会の広報誌「Think Asia」にバー・モウのことを書くもとになり、何冊かの古い本を読んでいたら、懐かしい名前に突き当たった。ビルマの傑僧オッタマである。田中正明著『雷帝 東方より来たる』(自由国民社、1978年)180-182ページにその記述があり、オッタマを幕末の松下村塾の吉田松陰になそるなどユニークな見方を示し、西本願寺の門主大谷光瑞、松坂屋の伊藤次郎左衛門とのおもしろい出会いも書かれている。これはブログに転載しておかなければと思った。
 田中正明氏は故人であるがかつては財団法人国際平和協会の事務局長をしていたこともあり、縁のある人物である。日本人はもっとアジアのことをしらなければならない。

———- 以下、転載 ———-

 傑僧オッタマ(田中正明著『雷帝 東方より来たる』=自由国民社、1978年)

 民族革命には一つのパターンがある。最初に民族意識高揚のための啓蒙運動者もしくは教育家があらわれ、これを受けて、情熱的な行動による、破壊活動や大衆運動の先導者となって変革をもたらす革命家があらわれ、最後にこの革命事業を集約大成させる、といった三段階のパターンである。
 ビルマの民族独立革命もその例外ではない。啓蒙期の傑出した指導者の一人に、オッタマと名のる傑僧がいた。明治維新になぞらえるなら、吉田松陰、横井小楠、橋木左内の役割を担った指導者である。このオッタマ僧正の思想を受けて独立革命に起ちあがったのがオンサン将軍を中心とするいずれも20代の「30人の同志」たちである。松下村塾門下の高杉普作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤俊輔、井上聞多を思わせる活動である。そして今日のネ・ウィン政権の時代に入るのであるが、かれもまた「30人の同志」の一人である。ただ、明治維新とのちがいは、この独立革命のドラマは、大東亜戦争の渦潮のなかで起きたドラマであるということ、したがって脇役的な役割を演じたことである。
 二十世紀の初頭、ビルマ人の心をゆさぶった二つの戦争があった。一つは南アフリカのボーア戦争(1899-1902年)であり。いま一つは日露戦争(1904-1905年)である。
 ボーア戦争は、南アフリカに移住したオランダ系農民が、土着民とともに、イギリスの統治に反抗してたたかった戦争であるが、同じイギリスの圧政下に苦しめられていたビルマ人は、この戦争に期待するものがあった。だが、戦争はイギリスの勝利に終わってしまった。
 次いで起こったのが日露戦争である。この戦争に日本は勝った。巨大な軍事力を擁する帝政ロシアに、東洋の一小国日本が孤軍奮闘、ついにこれを打ち負かしたというニュースは、同じアジア民族であるビルマ国民に深い感銘を与えた。かれらは、日露戦争における日本の勝利を、アジア有色民族の勝利として受けとめた。日露戦争がいかにビルマ国民のナショナリズムに影響を与えたかについて、ビルマの歴史家ティン・アウン博士は、その著『ビルマ史』の中でこう述べている。
「ボーア人がその偉大な勇気にもかかわらずついに敗れ去ったことを知ったとき、ビルマ人たちは民族の指導者の苦悩の何たるかを知らされた。ところが間もなく、日本人がロシア人に対して勝利を得たことによって、ビルマ人たちは再び元気づけられたのである。
 当時アジアのどこの国でもそうであったように、ビルマでも、日本の維新以後の急速な発展は、アジア人が横暴なヨーロッパ人とついに社会的・政治的に対等者となりうる新時代の黎明であるとして歓迎されていた。このころビルマに最初の映画館が出現したが、上映されたのはボーア戦争と日露戦争の記録映画であった。観客はスクリーンに写し出されたマフェキソ(イギリス人に包囲されたボーア人の町)のボーア人救出に安堵の溜息をつき、日本軍の兵士が鉄道で輸送されるロシア軍隊を襲撃する場面にはおしみない拍手をおくった」(鈴木孝著『ビルマという国』)。
 一代の傑僧オッタマ僧正が、アジアの強国日本にあこがれを抱いて渡日したのは1910年(明治43年)、日露戦争から5年後のことである。
 オッタマは英国に留学し、帰国後、抗英独立運動を鼓吹して投獄された。日本が明治維新後、外国との不平等条約を撤廃し、当時世界最強の陸軍を誇示していたロシアをやぶるまでに至ったその力の根源は何か、ビルマが英国に抗して独立をかちとるためには日本を勉強する必要がある。--出獄後も抗英独立連動を続けていたオッタマは、そう思いたつと矢も盾もたまらず、苦心して船賃を工面し、訪日の旅にのぼった。
 かれは京都に出てまっ先に浄土真宗本願寺派の門主大谷光瑞を訪ねている。大谷は1902年、パミールからチベットに入り、ホータン、チャックを探検して、その成果を『新西域記』にまとめており、当時日本人として世界的に知られた探検家であった。
 オッタマは、大谷のすすめもあって、あらゆる階層の日本人に接したいという念願から、京都から歩いて東京まで巡錫(じゅんしゃく)した。たまたま名古屋で大きな葬式にでっくわした彼は、もの珍らしく門に立ち、じっと式の様子をながめていた。
「どこの坊様か知らないが、ありがたそうな僧が門にいらっしやる。お経の一つもあげていただいたら功徳になるのでは……」
 というので、家人が鄭重に招じいれた。
 頭はさいづち頭で、体躯は偉丈、眼光するどく、見るからに傑物の風貌をそなえていた。粗末なカーキ色の法衣をまとった旅僧ではあるが、この家の当主は、オッタマの尋常ならざる風貌に魅せられて。僧を引きとめ、いく日か滞留をねがった。これが名古屋の豪商、松坂屋伊藤次郎左衛門との出会いであった。
 伊藤次郎左衛門のうしろだてで、オッタマは3年間日本に滞在し、さらに妹をビルマから呼びよせ、京都の女子技芸学校に通わせた。かれはこの3年間の一時期、東京帝国大学文学部で、仏教哲学とパリー語について教えている。ビルマの歴史学者マウン・マン博士は、オッタマの日本遊学について次のように述べている。
「今まで西欧の歴史や地理の本に、その国民は体躯倭小で取るに足らぬ人間であると書かれてきたアジアの日本が、二十世紀初頭ロシアに大勝を博したため、日本はビルマの志ある青年たちの目に、まさに旭日昇天の国として映った。日本を見たオッタマは、東京の大学で一時、教鞭をとり、インドを経てビルマに帰ってきた。近代国家建設のための日本国民の団結と勤勉について、素啼らしいみやげ話をたくさん持ってきた」(前掲同書)。
 この素時らしいみやげ話を一書にまとめたのが、有名な『日本』という書物である。この書は、ビルマの青年やインテリの間にむさぽるように読まれた。このため、ビルマにおける日本の声望が大いにあがり、日本にあこがれ、日本に留学する学生は急激に増加した。
 オッタマは、この書の結論として、「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結・蹶起すれば、必ず独立をかちとることができる」と説いた。
 オッタマはインド国民会議派のガンジー、ベル-、ボースらと密接な連絡をとりながら、ビルマの完全自治を要求する運動を起こした。かれは民衆に向かって、独立獲得のためには暴力行動も許されると説き、民衆煽動のかどで投獄された。このためかれは、民衆の眼に殉教者として映った。
 出獄すると、各地に青年組織をうえつけ、その後の革命運動の母体となった「仏教青年会」(YMBA)を結成した。三たび投獄され、1927年に釈放されるとただちに納税ボイコット運動を起こし、英国のビルマ統治を根底からゆさぶった。こんどは終身禁鋼を宣告され、1939年に獄死した。