1月下旬インドネシアのバリ島を訪れた。仕事で頻繁に訪れていた頃から実に15年ぶりのことだ。30年が一世代というから15年といえば結構なしばらく振りである。日本にいるとこの時間は日々の目まぐるしさでまるで遠い昔のことようだ。そんな自分をバリはまるで時間が止まったかのようにゆったりとした空気で迎えてくれた。初めての訪問から20年近くも経つ。あの頃の自分に瞬間移動したような気分に襲われ不思議な感覚だった。
 しかしバリにも徐々に都市化の波は押し寄せてきている。Jalan tolと書かれた高速道が出現してバリ海を跨いでいるのには驚いた。Jalanは道、おそらくtolは英語のtoll(使用料)から来ているのだろう。読んで字の通り有料道路なのだ。一般道に溢れる車列をよそ目にひとっ跳びの道にはバリっ子たちも驚いたろうがちょっと寂しい気もする。そして車とバイクの増え方が尋常でない。デンパサールの朝夕のバイク・ラッシュはアジアの街々と変わらなくなってしまった。昔いたるところで見かけた菓子や果物を頭に載せたお供物の行列は今回一度も目にしなかった。おそらく都市化は街なかに集中の現象だろうが少し気になるところだ。
 街を少し離れると行き交う車を縫うように飼い犬なのか野良犬なのか犬たちが悠然と歩いている。そうだこれがバリのリズムだ。彼らは一様に穏やかな目をして 殺気立ったところが微塵もない。南米以外世界のあちこちを歩いたが、町が平和かどうかは犬たちの目を見れば分かる。貧富の違いと関係なく穏やかな犬とそう でない犬がいるのだ。ヒトが殺伐とした暮らし向きの所は犬の目も険しい。優しい目をした犬たちのバリがこの先も続いて行って欲しいと思う。
 日本を飛び出すと自分って何だろう、日本と日本人って一体何なのかと問題意識が湧き起こるのは皆さんも経験がおありのはず。文明開化で西洋に行った明治の偉 い人たちも宇宙飛行士も同じ体験をしている。それが自分自身であったり自国であったり或いは地球であったり対象の大小はあるが同じような精神作業だ。外に 出て初めて気づく自分。これはヒトに限ったことでない。企業も同じような気がするのだ。海外進出が活発化してから十数年。バリに行ったのはそんな頃だっ た。
 当時は年がら年中、資生堂らしさって何なんだ?を考え続けていた。海外の人たちから
“What is the Shiseido-ism?”とか”Who is Mr.SHISEIDO ?”などと問われる機会もやたら多かったが、いま振り返ると会社自体がグローバル化のなかで前述のような自分探しを始めていたのだと思う。つまりは企業に 流れる遺伝子探しだった。
 すでにその頃バリ直行便はなくジャカルタ経由でデンパサール空港に到着するのは深夜だった。暗闇のなか下降する機中から窓越しに満月に照らされる樹々や棚田 を目にした。得も言えぬ情景だった。あの時すでにバリの魅力というか魔術にはまっていたのかも知れない。その旅の直接目的は華僑資本のリゾート事業への誘 いであった。しかしこの話は直ぐ断った。この計画用地が聖地でもあるタナロット寺院に隣接していたのだ。けれどもこの最初の訪問で数々の驚きがあった。簡 単にいえば私たち日本人と共通の源を持つ生活や文化が営々と受け継がれていることだった。資生堂にも受け継がれているアジアの遺伝子に巡り合った気がし た。
 圧倒される大自然というより椰子と竹が織りなす植生景観に人々の造り上げた水田が組み込まれている風景が象徴的だった。ビリビリ伝 わってくるこの感覚は一体何なんだろうと最初は戸惑ったが、やがて時間が経つうち自然に抱かれ暮らし住む人の知恵や先人の教え、伝統、日常に馴染んでいる 神々と信仰心、そんなバリの人々に負うところが大きいと気付いた。日本が遠い昔に置き去ったものに再会したような懐かしさなのだ。この地にいると全ての感 覚が鋭敏になる。地中から一斉に湧き出る陸生ホタルに鳥肌立ったりバルコニーに腰掛けていると渓谷の向こうから聞こえてくる鶏の鳴声や人々の話し声が聴き 分けられたりした。場の持つ力が本来持つヒトの感覚を呼び覚ますのだろう。我々は物質的な豊かさと引き換えに感覚が退化しているのだと思った。アジアの持 つ力を実感した。
 話を戻す。ビジネスはとん挫したがこの地は資生堂にとり掛け替えない拠点になり得ると思った。その頃タイミングよく社の 幹部養成セミナーが美術、芸術の村UBUDで開催された。この村を昔から率いてきた王家(土地の人はそう呼ぶ)が伝統を尊重しつつ如何に村を興すかに傾注 している話を聞く講座だった。最初の訪問で電気に打たれ悶々としていた時「UBUDの王様は信頼のおける人だから相談するといい」とアドバイスを貰った。 当時の日本からの観光客は海浜地区が大半、車で1時間も山の中まで足を延ばす人はまだ少なかった。何度か足を運んで話を聞くうち、この地の持つ場の力と資 生堂の技術・知名度のコラボで何か素晴らしいことがやれたらいいねということになった。
 この間にもいろんなことがあってなかなか話は前進 しなかったが振り返ってみてあの期間はビジネスの相手として品定めされていたのだと思う。それはともかく冠婚葬祭を重視する彼らから招待状が頻繁に舞い込 む。出来る限り招待を受けることにしていた。葬儀に二度、結婚式に一度向こうの衣装のサロンを腰に頭に鉢巻を巻いて出席した。このようなことがアジアで大 事なことは何となく知識としてあった。車座で酒を回し飲みしたり、煙草を燻らすことが仲間としての意識を高める。これが功を奏したかどうかは知らないが新 たに計画予定のある高級ホテルでSPAを展開する話が持ち上がった。
 山深い渓谷沿いの斜面にコテージ風のヴィラ群、同敷地のなかで展開す る高級SPAビジネスだった。バリ語の格言にある「トリ・ヒタ・キラーナ」から名称は「キラーナSPA」と決まった。その頃椰子やバナナの生い茂る急な坂 道を右往左往して完成後の施設や景観をよく夢想した。私はこのプロジェクトの途上で別の仕事に移り完成を見ていない。今回初めて訪れて、当時思い描いた通 りの光景がそこにあることにいたく感動した。
 それからもいろいろあって今は王さまのスカワティ家との提携は解消され結論的にはご縁は切れ てしまった。折々の事情があるだろうしそれをとやかくは言えないが、いま振り返ってみて残念に思うのは、日本が日本から既に発信できなくなっているアジア の魅力と人々の知恵、最初にぼくがビリビリきたそういう価値の発信拠点であることをなぜ前面に押し出そうとしなかったのか。SPAがいけないということで ない。アジアの資生堂は歴史の中で日本が置き去りにした古き良き伝統をUBUDから発信できたはずなのに目先の「事業」につい捉われてしまったという自ら の判断ミスが拭い切れない。やりようでは仏のレ・サロン・デュ・パレロワイヤルにも匹敵するような発信拠点にもなり得たなぁと思う。
 それはともかくとして、自然を克服しようとして自我の形成に至った西洋、自然を受け入れつつそこに居場所を作り出したアジア。物質文明のオーバーランに気づき 始めた欧米人の中にいまアジア的価値に活路を見出そうとする識者は多い。私たち日本人も戦後この方、個の確立こそが求める解と信じて現在に至っているが果 たしてそうだろうか?バリの人々の暮らしに触れてそんなことが頭を過る旅となった。