アメリカ合衆国の医療が荒廃していることは、今や世界の常識だ。アメリカには日本のような国民皆保険は存在しない。公的医療保険がカバーするのは高齢者と低所得者の一部。大多数の国民は、「自己責任」で民間の高額な医療保険に入るか、無保険者でいるか、そんな究極の選択を迫られる。
 アメリカでは国民の6人に1人が無保険だという。
 はっきり言えば、アメリカの医療を牛耳るのは民間の医療保険会社だ。保険会社は、加入者がいざ受診しようとすると厳しい条件を突きつけ、高額の支払いを要求する。加入者が手術を受けたり、出産したりすることで自己破産するケースは珍しくない。そのような患者と家族は、当然のことながら、保険会社の言いなりで冷淡な対応をする医師を憎む。「悪魔の手先」と恨む。
 しかし、「儲け」を第一義とする民間保険会社中心のアメリカ医療の中では、医師もまた被害者になるケースが後を絶たない。保険会社のお覚えめでたく、高額の給与をもらって人生をエンジョイしている医師もいるそうだが、統計的にはアメリカ国内で医師の自殺率は非常に高く、過剰労働、保険会社や製薬会社からの重圧に苦しめられている。訴訟リスクも高い。
 「コミック 貧困大国アメリカ」(堤未果 著・松枝尚嗣 漫画、PHP研究所)は、移民を狙う住宅詐欺や、肥満と貧困ビジネス、借金逃れの志願兵などの話とともにアメリカの医師たちの受難ぶりも紹介している。
 保険会社が「評価」と称して、医師にコストダウンのプレッシャーをかける。保険会社の評価がダウンすると保険医の認定を外される。保険業界は各地域の病院を買収して、独占市場を形成する。医療事故訴訟に備えた保険料の支払いが数十万ドルにも及んで廃業する医師…。
 日本の国民皆保険は、医師にとっても極めて大切な制度なのだと再認識させられた。程度の差はあれ、日本でも医療の市場化、民営化の圧力は高まっている。「民」の領域を広げることで、医療費が抑制されるかのような説を唱える経済人もいるが、大きな間違いだ。
 2001年に東京で開かれた医療シンポジウム「日本の医療制度を民営化すべきか?」に出席したハーバード大の医療経済学者、ウィリアム・シャオ教授は次のように語っている。
私は日本が増大する医療費の解決策として民営化を導入しようとする議論が全く理解できない。医療費の抑制方法には四つある。健康保険がカバーするサービスを減らす、患者の自己負担を増やす、サービスの値段を下げる、そして医療費総額に上限を設ける事だ。すべて民営化しなくても十分に可能なことなのに、何故わざわざ民営化する?アメリカの例を見れば明らかではないか。医療費抑制策と民営化の二つは完全に区別されるべきであることが。(「コミック 貧困大国アメリカ」より)
 もちろん、患者負担の増大や医療の質、量の低下が日本の宝・国民皆保険制度を実質的に「骨抜き」にする怖れは十分にあろう。だが、医療への市場原理導入が医療費を抑えることがあり得ないことだけは、肝に銘じておきたい。(日経メディカル 2013年9月13日)