―埋もれた高知の先哲  2013年9月9日

今日は萱野長知の話をします。孫文の革命に関わった日本人は少なくありません。一番有名なのは宮崎滔天です。熊本の人です。『三十三年の夢』という本を書き、中国語でも多く読まれました。次は山田良政です。津軽人です。1900年、広東省での革命で死去しました。最近有名になったのは梅屋庄吉です。日活映画の創設者の一人で、胡錦濤総書記が来日したとき、日比谷の松本楼で晩餐会が開かれました。梅屋の孫娘がその経営者です。生涯孫文を支援したことを公にするなと言って亡くなりました。香港で孫文と知り合い、肝胆相照らします。頭山満や犬養毅も忘れてはなりません。
 萱野はあまり派手ではありませんでしたが、孫文が最も信頼した日本人の一人です。孫文が1925年に北京で客死する前に「萱野を呼べ」と言った話は有名です。当然、萱野は日本から北京にかけつけます。
 多くの日本人が孫文の革命に関わっています。だから中国はもっと日本に感謝すべきだという人がいます。しかし、それは間違っています。日本人が孫文の革命に関わっていくさまをもっと世界史的観点から見なくてはなりません。
 19世紀の後半、日本は開国し明治政府が誕生します。中国はもっと前、アヘン戦争時に開国を余儀なくされます。アジアの多くの国が西洋諸国によって次々と開国を迫られていました。そもそも当時のアジアには国境という概念はありません。漢字文化が今以上に浸透していました。江戸時代の朝鮮通信使たちと日本の文学者たちは「書」を通じてお互いに意思疎通をしていました。
ほぼ250年、アジア諸国間では戦争というものがなかったのです。平和というものは一面恐ろしいものです。アジアでは「武」の力が相当程度落ちていました。そこへ西洋諸国が鉄の船と蒸気機関という新兵器を携えてアジアにやってきました。
日本の幕末の志士たちは上海に密航して西洋諸国がアジアにつくった租界というものを目の当たりにします。「犬と中国人は入るべからず」という公園の看板に驚きます。
明治の人々にもこの危機感は受け継がれました。日本の存亡とアジアの存亡という問題意識が混在していたといっても間違いありませんでした。一方、日本国内では明治政府が薩摩と長州という「勝者」たちによって国作りがおこなわれていることに多くの人たちが危機感を持ちました。明治政府は「万機公論に」ということではなかったのかということともに、日本だけが救われればいいのか、中国や朝鮮はどうなってもいいのかという危機感でした。
自由民権運動はそうした背景から立ち上がりました。その自由民権運動は高知を中心に育まれました。自由民権論者の意識にも「日本の存亡とアジアの存亡」が混在していました。明治維新の次に中国で民主革命を起こして日本に逆輸入する。そんな気概を持っていました。
中国にも同じような意識がありました。清朝末期に変法運動が起こります。明治維新にならって清朝も皇帝の独裁政治から脱する必要があると考える人々がいました。康有為や梁啓超といった人々です。しかし彼等は改革に失敗して日本への亡命を余儀なくされます。孫文たちはその次の世代の改革者たちです。
当時の中国と日本には大きな違いがありました。中国の場合、満州民族に支配された国家だったのです。彼等はまず漢民族による支配を取り戻さなくてはならないと考え、西洋の進出からアジアを守らなければと考えました。次いで民主主義による統治が不可欠だと考えました。それから貧富の差をなくすために地主の土地を小作に分配する必要があると考えられました。孫文はそれを民族・民権・民生の三民主義と分かりやすく説明して、革命の必要を説きました。民権と民生を理念に立ち上げたという点で彼等の理想は明治維新を越えていました。日本の多くの知識人が中国革命に夢を抱いたのはまさにこの日本の先を行く中国革命の理念への共感であったろうと思います。
先ほど、世界史的視野が必要といいました。19世紀後半という時期は資本主義の黎明期です。企業が資源と労働力を求めて世界中に支配力を拡大した時代でもあります。当時、大きな企業と言えば、ヨーロッパとアメリカにしかありません。アメリカではゴールドラッシュがありました。中国人労働者が多く太平洋を渡ります。彼等はクーリーと呼ばれました。東南アジアではゴムやヤシの大規模プランテーション栽培が始まります。そこでも労働力が必要でした。南アフリカでは金とダイヤモンドが発見されて現地オランダ人とイギリス人との間でボーア戦争が起きます。西洋で起きたのは東洋人排斥です。黄禍論というものまで巻き起こりました。西洋諸国による世界支配が点から面へと広がる時期です。
日中の有識者たちの危機感が自国の防衛という小さな枠組みに止まらなかったのは当然のことです。日本も中国もない。いわば対西洋の共同戦線が組まれていたのだと私は思っています。そのために日本がしっかりしなければならないのは当然として、中国も同時にしっかりした政府がうまれなければ一蓮托生の運命にあるという思いです。
話を自由民権に戻します。萱野もまた自由民権に夢を託した一人でした。大阪で通信社記者をしていた時、大阪事件で夢破れます。命の危険にさらされ、上海にわたります。その時、同じように命の危機を感じてトラック島に逃れたのが森小弁です。その子孫が現在のモリ大統領です。
萱野は当時の大陸浪人としてはめずらしく中国語が堪能になります。弁髪をゆわえ、中国服を愛用していましたから、初対面では誰もが日本人とは分からなかったそうです。
孫文が革命家として世界的知名度を得るのはロンドンで清国公使館に幽閉されたことがきっかけでした。清国の横暴がニュースとしてロンドンから世界的に流れたからでした。土佐山の和田三郎や池享吉などはそのニュースに感動して孫文の著作を読み始めるのです。
萱野が孫文の革命にかかわる時期はわかっていません。1890年代という話もありますが、実際に動き出すのは1905年、東京で中国同盟会が発足後です。同盟会は孫文の興中会と黄興の華興会、光復会の三つの革命組織が合体したものです。胡漢民、汪兆銘、宋教仁、章炳麟、蔡元培ら有名な革命家はみな日本にいたのです。
萱野はただちに「革命評論」という雑誌を創刊して和田と池の二人に編集の協力を仰ぐのです。言論は大きく政治を動かすものです。その意味で「革命評論」は大きな意味を持っていました。
1911年10月、武昌に革命が起きると黄興が総司令官として派遣されます。その配下に萱野がいました。中国人と一緒に銃弾の下をくぐった仲間となります。武昌は清朝軍に落ちますが、その後、各地で革命が起きて揚子江南岸は革命勢力の下に下ります。
孫文は12月に上海に戻ります。革命派は孫文が潤沢な革命資金を持ち帰ったものと期待していました。しかし、孫文は無一文でした。孫文の意を受けて金策に廻ったのは萱野でした。三井商事上海支店の支店長に100万円の借款を求めます。支店長は30万円を調達し、提供を申し出ますが、その時、中華民国は袁世凱の支配下となってしたため、役立つことはありませんでした。
宋教仁が暗殺され、孫文らは中国にいられなくなり、日本に亡命することになります。その亡命も、最初は日本政府が拒否します。ここで動いたのも萱野でした。神戸港に停泊していた船に乗り込んで孫文を救出し、神戸市の高台に隠します。1913年から18年まで約5年間、孫文は革命の拠点を再び東京に置くことになります。その時も萱野は革命支援の雑誌や新聞を発行しています。国立国会図書館にもない資料が現在、高知市土佐山に残っているそうです。

ここで面白い逸話があります。政権を取ったら国旗がいるという話が日本で起きます。辛亥革命の2年前です。孫文が萱野に国旗、つまり青天白日満地紅旗をつくらせます。東京の業者が「なんやこの旗は」と問います。萱野が言ったのは「運動会で必要なんだ」ということでした。
もう一つ、政府が生まれたら通貨がいります。そこでまた萱野が動きました。東京に美術印刷の田中昴という業者がいました。大蔵省印刷局の技師が作製し、駒込の田中印刷が中華民国の紙幣を印刷します。荷車で銀座の五庄堂に運ぶ途中に人夫がその一束を落としてしまいます。それが拾われて、萱野が警視庁に呼ばれます。通貨偽造の疑いがかけられますが、まだ中華民国は誕生していなかったので、「通貨」にはならず無罪放免されます。この通貨は実際にハノイに運ばれたそうです。実際に遣われたかどうか知りません。
それにしても国家にとって最も重要なものである国旗と通貨の製造を萱野に依頼したということはよっぽど信頼がなければできないことだと思います。

萱野が本領を発揮するのは辛亥革命の後です。孫文は1912年正月、中華民国総統に就任しますが、革命政権は清朝の袁世凱と交渉し、皇帝の廃位と引き替えに袁世凱の総統就任を約束しました。袁世凱のもとで孫文は鉄道大臣におさまり、翌年、日本に凱旋します。日本は朝野をあげて孫文を歓迎します。孫文の絶頂期は短期間におわります。
1914年に実施された総選挙で国民党の勝利は確実でした。国民党が勝利すると総理の地位を奪われることを懸念した袁世凱によって宋教仁が暗殺されます。孫文は第2革命を起こして失敗し、8月に日本に亡命します。
時の政権は孫文の亡命を拒否しますが、萱野らの手はずで孫文は秘密裏に神戸に上陸します。孫文は1919年に広州市で中国国民党を結成するまで、日本に滞在し革命の巻き返しを図ります。宋慶齢と結婚したのも日本です。中国の名だたる革命家たちが再び日本に参集し、山東省や雲南省での武装蜂起は日本から司令されたものでした。
1921年に中国共産党が誕生し、コミンテルンは中国国民党と中国共産党の合作を求めます。この間、日本は中国に対して十五箇条の要求をし、第一次大戦後のパリ講話会議でも日本の主張が認められました。孫文にとってそれは大きな痛手となりました。同時に日本からソ連に対して支援を求めるようになりました。孫文を支援した多くの日本人たちは孫文を見放す動きにでましたが、萱野や宮崎、頭山らはあくまで孫文支援を続けていました。
孫文が1924年、神戸で行った有名な演説があります。「大アジア主義」と題して日本に対して「西洋の走狗になるのは、アジアの干城となるのか」と痛烈に批判しました。
孫文なき後、日本は一気に大陸進出の姿勢を強めます。満州事変の時は犬養毅が首相でした。萱野を密使として中華民国に派遣します。なんとか軍部の暴走を止めようとしたのですが、逆に犬養首相は5・15事件で暗殺されます。萱野の落胆は大きなものでした。
その後、日中戦争が勃発した後も和平に奔走しますが、結局、軍部の暴走を止めることは出来ませんでした。
萱野は1940年、「中華民国革命秘笈」という書物を書きます。呉漢民だったと思います。孫文革命の実態を字にして遺しておくようにいわれたためと言われています。
高知は元来、気宇壮大な人物を生み出しました。龍馬さんは薩長同盟を結ばせ、船中八策で明治政府の骨格を示しました。高知の人ではありませんが、世界連邦運動の初代会長となった尾崎行雄は「地球規模の廃藩置県を」と主張しました。この発想は龍馬さんの主張の延長上にあります。民間人として最初に憲法草案を書いた植木枝盛もまた国境なき社会を描いていました。
いま、日中は尖閣をめぐって最悪の関係にあります。双方が自国の領土だと譲ることがありません。でもアメリカやインドからみたら尖閣問題はどう映るのでしょうか。誰も住んでいない、ほとんどの人が見たこともない島をめぐって争っていることはたぶん理解できないでしょう。
 最後に今日、お伝えしたいことはお互い、日本人、中国人であることを忘れて議論できないかということです。桂小五郎が「長州には長州の意地がある」といいました。それに対して龍馬さんが言ったのは「長州も薩摩もない」ということでした。萱野長知が生涯、孫文の革命に尽くした背景にも同じ気持ちがあったのだろうと思っています。
 今、日本も中国も韓国もない。そんな発想が必要なのです。