津市に住んでいたころ、時々行っていた居酒屋に「海賊」という店があった。店の造りはどうみても居酒屋なのだが、大将は自分のことをシェフと呼ばせていた。店の看板には西洋料理などと書いてあって大将はフランス料理が得意だというのだが、多くの客は信じていないからそんな料理は注文しない。
 刺身の後になんとかブイヤベースとかいわれたら一気に酔いが回りそうになる。一度だけ大将が勝手にビーフシチューをつくってくれたことがある。その時はまだビールしか飲んでいなかったから確かにうまかったのだが・・・。
 話したいのは食べ物の話ではない。この大将は尾鷲市の九鬼(くき)という漁村の近くの出身である。氏神さまはさすがに鬼の字を避けて九木神社という。九鬼は戦国時代に海将として名を馳せた九鬼嘉隆の出身地である。九鬼一族は源平の戦いで活躍した熊野水軍の末裔で、織田信長、豊臣秀吉につかえた。朝鮮戦役では表面に鉄板を張り巡らせた日本丸という名の戦艦をつくり、李舜臣の亀甲船に唯一負けなかった。徳川の時代になって兵庫の三田の藩主に転封され、海との縁を切られた。
 この店を二度目に訪れたのは南アフリカのヨハネスブルグで出会った九鬼さんと飲んだ時である。この九鬼さんは商社マンで、おじいさんの代まで九木に住んでいた。九鬼一族の傍系の人であることを聞いていたのでご接待するなら海賊がぴったりだと考えたのである。
 任地に半年も住んでいると地名についてかなり知識を得ることになる。尾鷲から熊野にかけて面白い地名がたくさんあるのだが、僕が関心を持ったのは「鬼」の名のつく地名だった。三重県だけでも、鬼の名のつく地名は二木浦(二鬼)、三木里(三鬼)、八鬼山(やきやま)、九鬼がある。
 「鬼」が「木」となるのは瀬戸内海の鬼ヶ島が現在、「男木島」「女木島」と表記するのと同様、後々の人たちが「鬼」の字を避けようとかんがえたからであろう。
 以前、陸前の友だちが岩手県の九戸という村の出身だった。その友だちから、青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸、四戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と一から九まで「戸」の名のつく地名があることを知らされていた。「戸」ってなんだろう。分かったことは平安時代からここらには馬を飼育する牧場がたくさんあって、順番に一から九まで名を付けられたということだった。
 熊野は水軍が育った土地柄である。連想で思い付いたのは「戸」(へ)が馬なら「鬼」(き)は船かもしれないということである。水軍が一から九まであってその水軍を熊野別当が統帥していた。つまり戸は陸軍で鬼は海軍ということである。そう考えると鬼の名のつく地名が一から九まで組み合わされていたとしてもおかしくない。素人考えの続きである。
 平安時代末期の陸奥は安倍、藤原の天下で、陸奥をなんとか朝廷の支配下に置こうと源義家らが戦った地である。戸と一から九までを組み合わせて地名としたのは源氏方であろうと考えた。先住民が地名に順番をつけるはずがないからである。
 そうなると話は俄然おもしろくなる。熊野水軍はもともとが平家方だった。宮廷で熊野信仰が盛んになるのは白河上皇からで、平清盛と時代を同じくする後白河法王は熊野に34回も詣でている。朝廷と熊野信仰との蜜月時代である。宮廷の女官らにも熊野に連なる人々が多く輩出し、宮廷-平家-熊野の三位一体の時代が一定期間続いたのである。
 その熊野水軍が源平の雌雄を決する壇ノ浦の戦いで平家から源氏にくら替えした。これが平家にとって最大の読み違えだった。これは歴史的事実である。弁慶は熊野別当の湛増の子どもだったという説があって、紀州の田辺市では歴史的事実のように語られている。弁慶が熊野で寝返り工作したはずである。
 繰り返すが鬼の地名にはなんの根拠もない。素人の連想である。熊野市の中心地の木本で当地出身の演歌歌手である紀の川良子さんにその話をしたら、「木本」(きのもと)はむかし「鬼本」(きのもと)と書いたのだそうだ。さも当たり前のように「だから木本は一鬼よ」というのだ。
 おー、やっぱりそうだったのか。一鬼が見つかってなんとも嬉しかった。木本、二木、三木と続いて、八鬼、九鬼がある。じゃあ四、五、六、七、はどこにあるのだ。住宅地図をなめるようにして調べたがみつからない。
 五鬼だけは見つけた。奈良県十津川村の北山川沿いに前鬼という在所がある。神代の時代、葛城山に住んでいた役小角(えんのおずぬ)が調伏した前鬼と後鬼という夫婦の末裔が住む集落で、鬼の夫婦には五人の子どもがいて、それぞれ五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼助、五鬼継を名乗り、代々修験道の山伏たちの世話をしてきたが、明治以降になって、五家は五鬼助だけになったという。名字だけではあるが五鬼は存在した。だがこの五鬼はどうやら水軍とは関係がなさそうなのである。
 だれか四、五、六、七の鬼の地名を知っていたら教えてほしい。(伴 武澄)