ワシントン州シアトルは米国本土の北西隅に位置し、北へ150kmも走ればカナダ国境だ。
 緯度からいえば北海道より遥かに北に位置するのに海流の関係か冬の厳しさもさほどではない。目にする樹木や植生も何となく日本に似ていて空気もしっとりしている。周辺に北米先住民の居留地が数多くあったためか、住む人の表情も穏やかで静かな印象が強い。
 魚市場に行けば太平洋の懐かしい魚たちを目にすることができ、おまけに鯉まで並んでいる。アメリカインディアンの影響だろう。近年はイチローさんや大魔神が在籍したマリナーズの本拠地として知られるようになったが、日本人のアメリカ本土移民上陸の地がこのシアトルなのだということは意外に知られていない。しかし先ほどのような環境風土で日本人がこの地を最初の地としたのも何となく分かる気がする。1900年頃のことである。
 チャイチャイブーという言葉をご存じの方は四十路を越えた世代かも知れない。1970年頃、颯爽と現れた若手作家がいた。60年代末だったかも知れない。名前を片岡義男といった。ポップカルチャーの旗手という触れ込みで若者に絶大な人気があった。確かに軽妙で乾いた文体はそれまでになかった作品群だった。アメリカの生活や若者を題材に新しいアメリカを数多く紹介した。その中に、前後の記憶は薄れたが「チャイチャイブーの人達」を描いたものがあった。
 チャイチャイブーとは秩父の英語読み、つまり秩父丸でハワイに入植した日本人移民第一号の人々のことだ。彼らのことを次世代の二世三世は誇りと親しみを込めてそう呼んだ。そこには二重の意味が込められている。つまりチチブをチャイチャイブーと英語読みしかできなかったこと、だがしっかりと心に刻み語り継いでいる日系移民の歴史とスピリッツそのものなのだ。片岡義男もまたチャイチャイブーの末裔だった。彼の作品の乾いた硬質のアメリカ文化の記述は新しい時代に触れたような気がしたものだ。
 移民とは移民政策に国同士が合意して、その募集に応募した移住者を指す。ここでアメリカの日系移民史に触れておくと日本人移民の一号はハワイだった。これが前述のチャイチャイブーの人たちである。まだカメハメハ王朝の頃だ。1890年前後から入植は始まった。
 1900年頃からは米国本土が続いた。大きな流れからみれば、シアトルに始まりポートランド(オレゴン州)、サンフランシスコ、ロサンゼルス(カリフォルニア州)と入植地は南下する。沖縄、広島、和歌山の出身者が多かったらしい。30年前はまだ広島や沖縄の方言の入り混じった独特の日本語をサンフランシスコのジャパン・タウンやLAのリトル・トーキョーなどで聞くことが出来た。いずれも広大な国土を耕す勤勉な労働力を国は必要としていた。明治政府も国内の殖産興業と農耕従事者の低減を目的として移民政策に力を入れたということだから、国も応募者も当初は出稼ぎ的な色彩が濃かったのかもしれない。(参考資料:全米日系人博物館より)
 NYからLAに転勤したのは7月だったが、太陽がギラギラ照りつけるのに乾いた風が冷たかった。からっとした空気に何と西海岸は開放的なんだろうと思った。それまでに日本から幾度か訪れていた印象とは全く別物だった。東から西へ距離的には日本に近づいたが、感覚的にはNYの向こうへ渡ったような気がした。
 前任者に子供がいなかったせいでコブ付きの我が家は住居の手当からせねばならなかった。アメリカのネット事情の凄さを目の当たりにしたのはこの時である。NJの家の近所の不動産屋にふらりと飛び込みLAの住宅事情を尋ねようとしたところ、いきなり家賃は? 子供の学校は? オフィスまでの所要時間は? と矢継ぎ早に質問が飛んできた。驚いたことに全米のZIP CODE(郵便番号)単位で平均所得、教育レベル、犯罪発生率などが網羅されていた。つまり東海岸にいて西海岸の物件を絞れるわけだ。ポンとキーを押せば立ちどころに該当物件がいくつか上がった。今では日本で何の不思議もないが1983年のことである。
 そのなかに「日本人に貸したし」というのがあった。早速電話して聞いてみると、何でも知日家の弁護士らしく仕事で日本に行く間、日本人に借りてもらいたいという。理由は日本人は清潔好き、靴を脱いで上がるから家も汚れないとのことだった。ダウンタウンから車で40分ゴルフ場のすぐ脇で環境も申し分なかった。お金で安全が確保できるならと、家計の限度を大きく超えていたが思い切ってこの話に飛びついた。物件も見ずに乱暴なことをしたものだが、結果この家でカリフォルニアを満喫できた。驚いたのは家には前栽が設えられ小さな燈籠まである。大家さんからの書置きには「庭木の手入れは馴染のガーデナー(庭師)が来るのでご心配なく、家賃に込みです」とあった。
 買い物に出てみると地元のスーパーマーケットはどこにも日本食材コーナーがあった。さらに生鮮野菜の売り場では、青菜に「Nappa」茄子には「Nasu」と大書きしてある。海の向こうは日本なのだと実感した。日系移民の人たちが地元に根付かせたものなのだろう。その内、書置きにあったガーデナーさんがやって来た。Oyamaと名乗ったが、尾山さんなのか大山さんなのかオ・ヤーマという発音からは区別がつかなかった。大家さんの日本庭園を造ったのも彼で10年も前からの付き合いとのことだった。折りに触れこのMr.Oyamaから南加の日系人の昔話を聞くことになった。日本語単語交じりの英語で仕事の手を止めて熱心に語ってくれた。こちらが日本人だったので思わず力が入ったのかもしれない。
 彼は日系二世、Mr.Oyamaの先代は戦時中マンザナの収容所にも入れられたらしい。腕のいい庭木職人だった。南加に入植した人たちは園芸や果樹栽培、花卉栽培がその主な仕事だった。面白かったのは、彼らが入植した結果、仕事を追われたのはイタリア系の人たちだったということだ。「自分は長男で庭師の後を継いだけれど、どこの家族も次男三男坊は車の修理やクリーニング業など自分たちのタレントで起こしていったよ。ここでまた仕事を取ったのがイタリア人だったから伊系アメリカ人は僕たちのこと憎んでるよ」と云った。つまり日系人が登場するまでは手先の器用な仕事を押さえていたのはイタリア系の人たちだったということなのだろう。
 アメリカは移民でなり立つ国だ。言葉が喋れなくてもこの国に来てから覚えて勤勉に一生懸命働きさえすれば、それなりの成功は保証されるという前提でなりたっている。欧州からもアジアからも近年は中南米からも移民は引きも切らない。アメリカの歴史は移民の歴史でもある。興味深いのは、どの地方からやって来たかで入植後の地も決まってくるという点だ。
 前述のイタリア人も北イタリアの人たちは北へ、南イタリアの移民たちは南部に住みがちだ。ドイツ系は中西部に固まっているし、東南アジアの人々は南加に多い。従って同じピザでも生地の薄いピザはサンフランシスコ以北、厚いピザは南部が中心となっている。(NYではぶ厚いパンピザのことをシシリアン・ピッツァと半ば軽蔑するかのように呼ぶ)
 自分たちの生まれた国や地方と似た風土を選ぶというのは国籍をこえ共通の感覚なのだろう。LAを中心とする南加に沖縄県人が多いのもやはり気候風土に拠るところが大きいように思う。前回の日本人妻にも言えることだが、望郷の想いで生涯を終えた一世たち、生地アメリカへの忠誠を行動で示した二世たち、自分のルーツ日本になにがしかの拠り所を求める三世・・・すでに四世、五世の時代が来ているが日本人の魂は脈々とアメリカの地で受け継がれている。