若い友人に中国からの留学生がいる。国で獣医になりあとは羊たちとの人生だったろうに一念発起して日本留学を決意し、昨年晴れて工学博士号を取った。内モンゴル出身の彼の半生は、それだけで一冊の本になるほど面白く興味深い。それは又の機会に置くとして、かれは在日中国人留学生75000人の組織の幹部でもあった。自分の研究分野についての関心と同時に、いつも在日同胞を気にしている。10年近く前、初めて会った時からいつもそうだった。
 何より驚くのは国のトップや要人が来日すると必ず滞在中に彼ら幹部は招集を受け、大使館で食事を共にすることだ。そこで留学生達から日本事情を聴き、学生たちと意見交換をする。国が上り坂にある時というのはそういうものなのだろう。川の流れに勢いがあると魚がみな上流を向くように、国のベクトルと個々の学生たちのベクトルが同じなのだ。ある意味怖いことだと思う反面、ちょっと彼らを羨ましくも思う。両国関係が冷えている現在、彼らは何とか日中の架け橋になれないかと模索している。
 司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の舞台である明治の頃の日本も同じであった。欧州諸国や米国に学んだ留学生は渡った時からエリートだった。脱亜入欧の尖兵として一歩でも西洋に追いつく国策の情報源であった。秋山兄弟も森林太郎も長岡外史もそのように扱われ育っていった。西洋諸国と違うとすれば、出自に関わらずエリートの道を歩めた実に健全な国であり時代であったことだろう。彼らの純粋さと天真爛漫な明るさが胸を打つ。その点いまの若者はある意味で不幸でもある。国の指針さえはっきりせず、池の鯉のように淀んだ水の中をてんでバラバラに泳ぐしかないのだから。
 次元は違うが、戦後の団塊世代も或る意味似た体験をしてきたように思う。圧倒的なアメリカ物質文明と豊かな暮らし向きという急流を、団体割引で必死に泳いで来た鮭の軍団のようでもある。ただ戦後民主主義と平等主義に染まって、無私の一途さや無心さからは程遠い自己主張の軍団となってしまったような気もする。
 戦後生まれの私たちにとって、明治ははるか遠い漠としたイメージだった。そんな中で正岡子規は親近感を覚える数少ない明治人の一人だった。大阪住まいの私には東京に大伯父がいて大阪出張のときはよく我が家に泊った。旧制二高から東京帝大に進んだ秀才で、ちょっとおっかない存在だった。ただお酒が入ると人が変わったように饒舌で子供の相手もよくしてくれた。訪阪の際は大阪在住の二高時代の友人と飲むのを楽しみとしていた。正岡忠三郎もその一人だった。当然酒席が用意される。我が家に着いた頃にはすでにお酒も入り賑やかだったが、子供達の陪席も許された。
 その伯父がいわく「お前はマサオカシキは知ってるか?」小学校の4、5年の子供に分かる訳がない。「ここに居る忠さんは、そのシキ先生の息子なんだぞ。」正岡子規を知ったのはそんなことからだった。伯父や父も含め周囲の大人は、みな彼のことを親しみを込め忠さんと呼んだ。忠さんは茫洋と、しかし飲むほどに話は面白く子供にとっても好ましい人だった。それもこれも今思えば忠さんの人柄だったのだろう。
 大学に入ったころ文芸春秋から刊行され始めた「坂の上の雲」の愛読者になったのもそんなことからだったかも知れない。秋山好古も真之もカッコよかったが、正岡子規には特別の愛着があった。折々に聞いた子規の断片のエピソードがそうさせたのだと思う。ここで正確を期すために少し解説が要る。忠三郎さんは正しくは子規の母の実家である加藤家の三男坊であり、子規の急逝で跡取りのいなくなった正岡家が忠さんを養子とした。正確には子規とは従弟関係にある。
 正岡家に入る時、養母となる律は忠三郎に釘をさした。「著述を生業としてはならない」。兄子規の暮らしに向き合っての忠告だったのだろう。忠さんは朴訥にその忠告を守った。二高から京都帝大を出て彼は阪急電鉄に入る。阪急電車の車掌からサラリーマンのスタートを切った。なんで帝大出の学士さまが車掌にとも思うが、思うところがあったのだろう。京大の後輩で後に指揮者となる朝比奈隆があとから入社して来て、彼が運転士、忠さんが車掌でコンビを組んだこともあったそうだ。すでに音楽に傾倒していた朝比奈氏は熱中のあまり駅を素通りしたり、停車駅に忠さんを置いて発車したこともあったらしい。
 二人は生涯の友であった。朝比奈氏はその後京大の哲学科に入り直し、やがてドイツに音楽留学する。思い切り遠回りをして指揮者としてのプロデビューは30歳を優に超えてのものだった。悠々とのんびりした時代がここにも見える。忠さんは車掌から阪急百貨店の呉服売り場の店員となり終戦まではネクタイ売り場もやったり、一貫して律の言いつけを守った。戦後も阪急の子会社を任されたりして現役を終えた。そしてその人生を一介の市井人で通し、子規の遺物の整理と編纂にあたることを自らの主務とし続けた。昭和51年没。享年71歳。葬儀委員長は司馬さんが務めた。その際の弔辞が後に小説となった。
 忠さんのご子息によれば、司馬さんと忠さんの出会いは司馬さんが「坂の上」の構想に取り掛かった昭和43年頃、子規に連なる人たちを大阪北の新地に招待したのが最初だった。子規に関する取材活動で始まった交流であったが、その一方で司馬さんはこの忠さんの生き方に強い感銘を受ける。その興味は忠さんの交友にまで広がっていく。想像ではあるが、司馬さんは、これもまた明治人の特質なのだと直感したのではないか? 「坂の上の雲」の完成から9年後の昭和56年、正岡忠三郎を中心人物として「ひとびとの跫音(あしおと)」は誕生した。
 大らかに明るく坂の上をめざした人々に較べ、忠さんを初めとした「ひとびとの跫音」の登場人物は先人より些か屈折した反骨のひとびとが多い。忠さんの二高時代の友人であり、戦時下の非合法共産党幹部として地下に潜伏、さらには戦後その共産党からも除名されるという二重の縛りに遭った西沢隆二(タカジ)もまたその一人である。みな明治35年前後の生まれだ。司馬さんはこの人たちにもう一つの好ましい明治人像を見て取ったのではないか?明治35年といえば登場人物ではないが白洲次郎やバロン薩摩こと薩摩次郎八もまたこの年代の人だ。脱亜入欧の明治もこの時代になると本格的な第2フェーズを迎えたのだろう。そして大正12年生まれの司馬さんである。憧れにも似た坂の上の人々、そしてそれに連なる忠さんやタカジ、そして自分に繋がる純粋なものとは? 二作品を通じて司馬さんが問いたかったものの一端を感じずにはいられない。
 出典は何であったか思い出せないが、司馬さんの自伝風の読み物の一節が印象に残る。あらましは次のようなことであったと思う。終戦直前、司馬さんは戦車隊の一員として栃木に居た。「もし米軍が東京に上陸したらどうするか」という議論となったとき、上官が言った。「道路に溢れる民衆を轢き殺してでも決戦に向かう」。この言葉を聞いて「日本はいつからこんなばかばかしい国に成り下がったのか。」と忌々しく思った…というようなものであった。ここに司馬さんの作品の原点があると思う。そしてまた司馬遼太郎を嫌う人々がよく指摘する「司馬史観」という批判のポイントもここにある。
 つまり司馬史観とは「明るい明治、暗国の昭和」「英雄礼賛」「幕末の攘夷思想が昭和の軍国思想に直結した」という、ある種決めつけの史観であるといった批判だ。ここで「司馬史観」の正否を述べることは本旨ではない。ただ一つ思うのは、この批判もまたワンパターンに過ぎはしないか。「英雄ばかりを描いて市井人が出てこない」などという佐高信氏の指摘など見当違いも甚だしいと思うのだが。「坂の上の雲」と「ひとびとの跫音」、二つの世代で明治人を重層に描いて見せた司馬さんの方にはるかに共感が湧く。
 財政逼迫、少子化、領土問題、原発など八方塞りの混迷の日本で、いままた国の右傾化が取りざたされている。高度成長期の効率主義や経済一辺倒の煽りを受けて、ついつい脇に置き去りにされた平和の意味を、国というものの意味を、老若男女世代を超えて考え、次の世代に語り継ぐことを私たちは迫られている気がしてならない。