ラビンドラナート・タゴールと岡倉天心 岡倉登志
一交流と思想-
2012年7月30日
タゴール家と岡倉家三代の交流
横浜印度商協会90周年の記念号にタゴール生誕150周年に絡めて何か書くように依頼され、「岡倉家三代とタゴール家の日印交流」という短い文章を執筆しましたが、刊行されていないので、今回の講演冒頭でこれについて話そうと思います。
岡倉天心(覚三)は、インドに二回出かけていますが、第一回インド旅行は、準備期1901年7月から11月、12月5日門司より乗船、コロンボを経由し、翌年の元旦にマドラス到着。 1902年10月までインドに滞在しています。二度目のインド行きはボストン美術館の公用(東洋部門にインド絵画も展示するための作品選別)で1912年9月半ばから10月13日までの約一ヵ月の滞在でしたが、タゴール家の親戚で天心が「宝石の声の女性」と呼んだプリヤンバダとの出会いがありました。この任務より天心がボストンに戻った1913年早春にはラビンドラナート・タゴール(以下タゴール)も講演のためにボストンに滞在したので、二人は当然会っていますが、タゴールはこれが最後の別れになるとは思っていなかったでしょう。
第一回のインド行きについては、横山大観の回顧談などに「美術院の財政難とか困難を逃れるため」とあり、定説と思われていますが、二〇世紀の幕開けには仏教伝来のルーツ探しが盛んで、天心も関心を持っていました。もちろん、インド美術の調査も目的でしたが、当初の主たる目的が京都で「東洋宗教者会議」を開催するためにヴィヴェカーナンダ(1893年にシカゴで開催された「世界宗教者会議」前後の欧米で評判の高かったヒンドゥー改革派で「普遍宗教」提唱者)に会うことであったことは、1月6日にマドラスを発ってヴィヴェカーナンダ(1863-1902)に会いに行っていることや、著名な仏教研究家織田得能への書簡からも明らかです。けれども、すでに日本を見聞していたことと重い病を患ってもいたヴィヴェカーナンダは、日本行きを断ったかわりに、天心らの目的に相応しい人物として、タゴールを紹介してくれました。ここに美術を中心とする日印文化交流ならびにタゴール家と岡倉家の交流がスタートしました。
タゴールは、ヴィヴェカーナンダのような宗教家ではありませんが、祖父や父が宗教家であり、教育者でもあり、人の一生における宗教の大切さを身を持って感じていました。この点、幼少時より仏教を生活の一部とし、青年期以来、真言密教に関心を抱いて修行もした天心と共通点があります。詩人で哲学者(思索家)、美術や音楽を愛し、造詣が深かった点でも両者は共通していましたから、東洋の二人の巨人が意気統合するのに時間はかかりませんでした。
ヴィヴェカーナンダの高弟でしたが、1902年の時点では師弟関係に溝が入り、タゴール家に居住していたアイルランド女性マーゴット(ニヴェディッタとして知られる)の存在は、天心がインドの文化のみならず、政治・社会状況を理解するうえでも、タゴールの親族、とりわけ、政治運動に関係していたスレンドラナートとの親交を深める媒体となりました。天心は、『茶の本』第一章でニヴェディッタの代表作『インドの綾(web)』をバーンの著作とともに、西洋人が著わしたアジアを理解した稀な本と称賛していますが、タゴールも、この著作を高く評価していたので1918年刊行の版に序文を寄せました。
天心の第一回訪印時はまだベンガル・ルネッサンスと呼ばれることになる藝術運動がまだ開花しておらず、1903年に天心によって派遣された横山大観と菱田春草が日本では不評であった線を排除した朦朧体の画法を中心に大作の描き方を伝授し、これはインドではウォッシャブルという名称で知られています。1905年には勝田蕉琴がシャンティニケタンで日本画法を教えました。タゴールの初来日した1916年には河合力氏の祖父荒井寛方が渡印し、日印文化交流が大きく進展します。
荒井寛方が日印文化交流の種を蒔きにインドに出かけてタゴール家に逗留した契機を作ったのは、私の曽祖父岡倉覚三(天心1863-1913)でした。天心は、4月以降ラビンドラナート・タゴールとその一族と親交を深め、5月には、『東洋の理想』を脱稿するとともに、ベンガル・ルネッサンスのリーダーであるオボニンドラナートとその兄のゴゴネンドラナートらタゴールの甥たちを中心とする青年美術家を指導しました。
天心の息子で私の祖父一雄(1881-1943)とタゴール家との関係はほとんど知られていませんが、草創期の横浜印度商協会にお世話になっていたかもしれません。天心の孫で私の父古志郎(1912-2001)によれば。スレンドラナートが英国留学後に実業家として活動していたので、一雄は、母親に「父上がお世話になったインドにご恩返しをしなさい」と言われ、文筆の道を捨てて「岡倉商会」の名で医療機器の対印輸出に携わりました。そのために小さな医療機器工場も共同経営しました。したがって、一雄は大正7年ころインドに赴き、タゴール家の人々と親交を深めるとともに、父親譲りの趣味から「虎狩り」も体験したようです。ところが、士族の商法」で第一次世界大戦終了からまもなくして「岡倉商会」を店じまいしたと古志郎は『祖父岡倉天心』に記していますが、国際経済の変化や、とりわけ関東大震災の影響も配慮すべきでしょう。
古志郎とインドの関係ですが、第二次世界大戦中に東亜研究所でインドを担当し、翻訳書を出しています。一雄が天心の死後すぐにインドと関わったように、古志郎も、1943年の一雄が死去する前後にインドと関わります。1951年に『ネール首相の秘密』を執筆したことは、非同盟運動をライフワークとする契機となったといえます。もっとも古志郎が本格的にインドと関わるのは、1957年にコロンボでの国際会議参加の期にインド旅行をし、タゴール国際大学のあるシャンティニケタンでラビンドラナート・タゴールの子孫たちと対面して以降です。さらに帰国後には1961年のタゴール生誕百年祭の事業に積極的に参加しました。それ以降では、1987年に執筆された「岡倉天心とベンガルの革命家たち」、『東洋研究』第81号は、古志郎の最後の本格的なインド関係の論稿となりました。
『東洋の理想』― The Ideals of East
ニヴェディッタをはじめ、スレンドラナータ・タゴールとベンガルの志士たちとの日常的議論は、天心の英文三部作の一冊『東洋の理想』と後に『東洋の覚醒』として知られる無題のノートに反映されています。『東洋の理想』は冒頭の「アジアはひとつ」が余りにも有名で独り歩きし、もっぱら日本の海外膨張のための政治的スローガンに利用されてしまいました。そしてすぐ後にあるアジアの多様性の論究が消し飛んでしまいました。一言でいえば、天心が指摘したヒマラヤ山脈より東のアジアがインドの個人主義と中国の共産主義という大きく相違する者が一つに融合することの意義、ならびに日本文化が「アジアの博物館」のごとき態をなし、アジアの多様な民族的・地域的・時代的文化の融合とみたことの意義がないがしろにされ。ただ、中国、朝鮮、インドなどのアジア諸文化(とくに仏教美術)に対する日本文化の優越性を強調するために利用されました。
天心は1894年に中国を旅行した時から儒教的北部と道教的南部の相違を認識していましたし、大陸に準ずるインドでも、東西南北では宗教に関しては、イスラーム、ヒンドゥー、シークというように、音楽・舞踊でも、食文化でも地域や民族の多様性があります。タゴールの代表的詩集『ギタンジョリ』にもインドの多様な人種・文化が共存・共生することを願った詩があります。「来たれアーリア人よ 来たれ非アーリア人よ ヒンドゥー教徒よ イスラーム教徒よ! 来たれ 来たれ 今は英国人よ」の一節はその典型例と思います。
文化の共生、異文化理解について、多分アメリカの多文化・多民族社会の理解で使用されはじめた「人種のるつぼ」から「サラダ・ボール」へという問題を紹介しておきます。 18世紀のフランス革命時のユダヤ人がフランスのカトリック的価値観に同化して市民権を獲得したの同じく、20世紀のアメリカでは、黒人も、アジア系もユダヤ系もアメリカの清教徒的価値観に同化することで権利を得られました。これが「人種のるつぼ」です。るつぼの英語はメルティング・ポットで、異なるものが融けて一つになるということです。
けれども同化は日本の朝鮮や台湾などの植民地支配に見られるように、宗主国や優越民族の文化に同化しなさいということで、平等な民族間の関係は同化では生まれません。それに対して、各々の民族が優劣なく、共生・共存し合うというのが「サラダ・ボール」です。トマトも、レタスも、キュウリも、アスパラガスもボール内では対等なように独立国民国家で諸民族が対等で共生するのです。これは民族紛争のない平和社会の前提になります。現実のインド亜大陸では第二次世界大戦後にサラダ・ボールの実現が困難となり、インドとパキスタンに分かれ、ベンガルも東インドとバングラデシュに分離しました。これはタゴールの「理想」とは相反しているのではとも思いますが、現実は厳しいですね。
東洋の理想の理想は、漢字では複数か単数か不明ですし、「アジアはひとつ」というのが理想であると思っている人も少なくないでしょうが、英語原文はIdealsと複数になっています。東洋の理想には多様な理想があるのでしょうが、タゴールや天心は西洋の合理主義、科学から学ぶとともに、西洋が科学技術を行使して侵略戦争に明け暮れた世紀末に二人が愛読していたゲーテ同様に、東洋の精神の重要性、優位性を認識しました。これは第一次世界大戦後の「西洋の没落」を憂いていた欧米の文学者や芸術家に共有された考えだと思います。 ここに見るタゴール的「大アジア主義」は天心も共有し、大東亜共栄圏を主張したアジア主義者とは一線を画しました。
結びに代えて
もう持ち時間がないので、タゴールと天心の「東西文化融合」思想とその現代的意義について論じられませんので、最後に問題提起的に次の三点-(1)大アジア主義一Pan-Asianismの二面性とタゴール、(2)真の国粋主義者は国際主義者である、(3)今タゴールと天心から学ぶことは何かにふれます。(1)と(2)は密接な関係があり、大アジア主義はナショナリズムでもあり、時には国粋主義であり時には国際主義でもある。古志郎は『東洋の再建』のあとがきに「天心は民族主義者であるが、国際主義者でもある」と記しましたが、これは先見性があったと思います。タゴールもイギリス植民地主義反対運動でナショナリストとみなされ、『ナショナリズム』という著作がありますが、タゴールは、天心同様に国際主義者です。7月の神戸の会での講演者(元コルカタ日本領事)は、タゴールとガンディーの共通性のみを述べられましたが、私はこの両名には国際性という点でかなりへだたりがあるように思います。ここで立ちいって述べられないので、差し当たりシャンティニケタンで日本語や日本文化を教えていた故牧野財士『タゴールとガンディー』あすなろ、2003と山折哲雄や我妻和男、森本達雄らインドやタゴール、ガンディーの研究者によるシンポジウム「タゴールとガンディー再発見」の記録(法蔵館、2001)を参照ください。
最後に、タゴールが関東大震災後の日本人に送ってくれた励ましの言葉にも示唆されていましたが、タゴールの自然観は、21世紀の現在にも色あせていません。漁民は津波の後も海に対して畏敬の念を抱き続けています。農民も自然を怖れるとともに、それへの感謝の気持ちを持っています。天心も、漁民が海には龍神が住んでいると信じていると考えており、一言でいえば、二人とも自然と人間の共生を恒久的課題と考えていました。
このような人物は、環境の保護者でもありました。タゴールも独自の自然観を抱き。どのように自然と対処すべきかを日常的に考えていたようです。イギリスのグラム大学で環境教育を教えているバルマー教授は、古今東西の思想家の50人の一人にタゴールをガンディーとともに入れています。他方、タゴールも天心も、産業革命後の発展が豊かな生活をもたらす半面で公害や禍をもたらしたことも認識しておりました。2011年3月11日のことに関連付ければ、「エネルギー革命と人間の幸福」あるいは真の平和(平穏な生活とは)という根源的課題を考えるためのヒントを優れた詩人哲学者は与えてくれています。