7月27日(金)。前回の日記から一週間が経った。今週は安芸市の山奥の土佐ジローの里を訪ね、株式会社相愛の会長でもある高知工科大学の永野正展教授のインタビューがあった。土佐山の斎藤工務店で木のスプーンもつくった。その間にアクアポニックの管理、スタードーム作り、畑仕事もあった。
 今日は土佐の文化を守る会事務局長の岩井信子さんによる「暦を読み、自然を読む」という講話を聞いた。メモをもとに岩井さんの話を再現すると以下のようになる。
「今日は旧暦でいえば6月9日です。6月はよく雨が降り雷も鳴ります。だから高知では”お鳴り月”と言っていました。鳴神月ともいいます。雷が神さまなのです。日本の古い表現が比較的よく残っているのが高知県と長野県なのです」
「雷さまのことを高知では稲むこ様と呼んでいました。田んぼは女性で、梅雨時に雷となった神さまが田んぼにやってくるのです。雷のことを稲妻というでしょ。本来は稲夫でなければなりません。夫も”つま”と読むんですから」
「そして今日は土用の九日目ですね。大暑と土用が同時進行しています。むかし土用には十八日あって、太郎、次郎、・・・・、十八日目は十八郎(とはちろう)って言っていましたね」
「暑中見舞いってあるでしょ。かつては土用見舞と言いました。一緒に厚い夏を乗り切ろうということでハガキを出しました。よく餅を食べました。体力をつける意味で土用シジミとか土用卵とかも食べました。栄養価の高いと解釈していたのでしょう。土用のウナギは平賀源内がウナギ屋に促されて書いたもので、広告のたぐいです」
「月の読み方は稲作と関連が少なくない。6月を鳴神月と呼ぶのもそうですが、7月を文月(ふづき)と言うのは”ふふみ”つまり稲が穂を含むことからで、8月は穂が張るために”張り月”ともいいます。9月の長月は穂が長くなることを意味しているのです」
 弾むように楽しく話が進む。日本が西洋のグレゴリオ暦導入を決めたのは明治5年11月9日。その年の12月3日を明治6年の正月とすると決めたから世間は大騒ぎとなった。歴史教科書にはちゃんと書いてあるが、その騒動については記述がない。
 庶民にとって徳川の時代から天皇親政に変わって一番大変だったのは暦と通貨の変更だったのではないかと思う。テレビもラジオもない時代にたった23日で暦を変えろというのだから大変だ。まず明治6年の暦はすでに発売されていたから暦業者は大損を背負った。誕生日がなくなった人も少なくないはずだし、2カ月先に来るはずだった正月の準備はもっと大変だった。当時は盆と暮れに取引の手じまいをしていたから金策に困る人が大勢いたはずだ。人々にとって「晦日に月が出る」ことは太陽が西から出るほどの驚きだった。
 岩井さんによると当時、新暦導入の急先鋒だった福沢諭吉は『改暦辨』という本を書いて「日本国中の人々、この改暦を怪しむ人は、まちがいなく無学文盲の馬鹿者である。これを怪しまない者は、まちがいなく日頃から学問の心がけのある知者である。よってこのたびの一件は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といってもよろしい」と書いた。
 それ以降、われわれ日本人は新暦ですべての物事を考えるようになってしまっているが、アジアの他の国々のように農業や祭祀などの年中行事は旧暦を残してもいいのではないかと思うようになった。季節感を失った民族はそもそも民族性を失ったに等しい。

 以下は岩井さんに教わった古い月の読み方。
 1月 祝い月、太郎月
 2月 次郎月
 3月 竹秋月
 4月 麦秋月
 5月 早苗月(サは田植えに関係する)
 6月 夏越し月、鳴神月、お鳴り月(高知)
 7月 含(ふふ)み月、盆月、花折れ月(花はシキビ)、女郎花月
 8月 張り月、花月、萩月
 9月 穂長月、菊月
 10月 神無月
 11月 霜月
 12月 雪月