右の写真は鈴木大拙館の池の雨の波紋である。雨の水滴が次々と波紋をつくり、交叉し合い、消えていく。音があるわけでない。色彩もほとんどない。それでもその繰り返しをいつまでも見ていたくなる心地よい造形だった。
 似たような波紋は普通の池でも見たことがあるが、この池は底が一面黒い石が敷き詰めてあり、深さも均一で数十センチほどもない浅さ。設計者の建築家、谷口吉生氏がここまで計算していたかどうか分からない。たぶん偶然の造形なのではないかと想像している。
 昨年秋に金沢を訪れた時の驚きは「鳥肌立つ鈴木大拙館のある空間」で書いた。それは館内の光の芸術について言及したものだった。最近の全日空の機内誌に鈴木大拙館の池を絶賛する記事が掲載されていた。
「展示室を出ると、突然、視界が広がり、水盤の庭と白い建物が姿を現します。水盤に面した廊下を進み、この建物に入ると、そこは展示も何もない空間です。ここまでこの建築をめぐってきて、最後の空間で出合う突然の空間に戸惑ってしまいました。なんだか迷子になったような不安感が滲みよってきます。しかし、ここからもう一度水盤を眺めて気づくのです。ここに至るまでの行程が、ここで始まる「思索の時間」のプロローグだということに」
 筆者の広谷純弘さんはその水盤を絶賛する。「この水鏡に時々、小さな音と共に波紋が生まれます。波紋は静かに広がり、やがて水面に吸収され、元の完全な水平面が姿を現すのです。その繰り返しを眺めていると自分もそこに同化したような感じとなります。・・・」
 全日空の機内誌を読むまで、なんとも表現のできない不思議な池だと単に思っていた。文筆家の手にかかるとここまで表現できるのかとあらためて自らの表現力のつたなさに思いを寄せた。それでも安心したのは広谷氏が最後に「ここでの体験を、うまく伝えることができるでしょうか」と文章を締めくくってくれていたことだった。それほどに伝えることの難しい空間の美が金沢にはあるのです。