2月25日、「絆つなぐ一杯の珈琲ー学生たちの震災支援」と題して高知市の文教会館でトークショーを行った。人の集りはいまいちだったが、参加者とともに積極的なやりとりを交わす面白い企画だった。
 学生たちは千葉県柏市にある麗澤大学4年生の関口和宏氏と大橋惇一氏。一年前の東日本大震災の直後、南柏の駅頭に立って始めたのが募金活動だった。120万円ほどのお金が集った。学生たちが考えたのは、赤十字に寄附することではなかった。
 まず募金を三つに分けて使うことを決めた。三分の一は物資、三分の一は他の団体への支援、そして残った三分の一は自分たちで使うことにした。自分たちといっても飲み食いに使うのではない。自分たちの支援活動の費用とすることにした。

 募金といえば、直接的に被災者に送ることが大前提なのだが、学生たちにあまり躊躇はなかった。最初に手がけたのは、Tシャツの配布だった。駅前商店街のTシャツ製造業者が製品の提供を申し出た。彼らの強みは、それまでに培っていた地元の商店街との信頼関係だった。地域振興活動を手伝っていたため、応援してくれるおじさん、おばさんたちがいた。
 5月、ワゴン車に積み込めるだけTシャツを詰め込んで被災地に乗り込んだ。1台で最大2000枚、結局約10往復した。Tシャツ業者が最終的に2万枚を提供してくれたからだった。すでに汗ばむ季節となり、被災地で着替えが必需品となっていた。Tシャツは飛ぶようにはけ、人々に喜ばれた。
 一カ月もたつと学生たちは考えるようになった。震災直後に必要な支援だけでなく、息の長い支援策も必要だろうと語り合った。避難所生活が長引き、仮設住宅の建設も話題になっていた。避難所生活はとりあえずのものですんだが、大きな体育館のようなところで共同生活するため、孤独はない。逆に仮設住宅に移り住むと特に高齢者の「孤独」が問題となる。学生たちにとって阪神淡路大震災の経験はすでに歴史でだった。おじさん、おばさんたちからそんなことを聞いてなんとかしなければと煩悶した。
 ちょうどそのころ、アフガニスタンで6年間、戦災孤児3000人の世話をしたセラピストの生井隆明氏と出会った。生井氏は「仮設住宅でカフェのようなものでもできたらいいね」と言った。学生たちも同じようなことを考えていた。学生たちはまた動き出した。大学の教職員たちも支援してくれたし、おじさん、おばさんたちもいろいろ助言してくれた。
 問題もあった。自分たちがやろうとしていることを支援してくれるのは嬉しいのだが、おじさん、おばさんたちはよくしゃべる。相談するとあれこれアイデアを出してくれる。しかし、やるのは自分たちなのにという不満が募った。大人たちの議論には「べき論」がおまりにも多すぎたようだった。
 そんな大人たちに直面して心底おもしろくないと思うこともあった。口ばかりでお金をたくさん出してくれるわけでも、一緒に被災地に行ってくれるわけでもない。大人たちの話を聞いていると「自分らしさがなくなってしまう」、そんな思いに後ろ向きになることもあった。
 しかし学生たちの構想に多くの大学生が共感してくれた。結局、「学生カフェ・プロジェクト」には10を超える大学の協力が生まれた。
 8月中旬、学生たちはレンタカーで宮城県山元町に向かっていた。学生カフェができるかどうか「プレ開店」をした。評判は上々だった。仮設住宅の自治会長さんも喜んでくれた。問題が一つあった。ボランティアといっても往復の旅費と滞在費はかかる。無償でコーヒーを提供していては長続きしない。
「一杯100円とろう」と決めていたのだが、実際、始めてみるとどうも様子がおかしい。
 農村地帯である山元町では「お茶」にお金を払う経験があまりないらしい。そのうえ震災者としてボランティアはすべて無償行為であると考える人が少なくなかった。
 彼らが提供したコーヒー豆はフェアトレードといって、コーヒー栽培農民に応分の賃金が得られるように「高め」の価格設定がされている商品だった。被災者たちが、貧しい途上国のコーヒー農園の労働者のために一杯のコーヒー代を払ってくれたら、双方向の思いやりになるとも考えていた。しかし、一杯100円のコーヒー代をとることは断念せざるを得なかった。
 学生たちはただでは転ばなかった。翌日から「お気持ちボックス」を出入り口に置いてみた。関口氏によれば、「100円どころかお札を入れてくれる人もいて、結局は一杯100円以上の収入になった」そうだ。考えるものである。
 当初から、学生たちは仮設住宅の一角で寝泊りできた。行政も自治会も「泊れ」といってくれたからだった。3回目に山元町に行ったとき、状況が180度変っていた。「仮設住宅は被災者のためのもので、支援者が泊るのは筋違いだ」。行政側から圧力がかかったことは悲しかった。
 それより学生たちが心を痛めたのは「お金」だった。8月から9月にかけて、亡くなった人々に1兆3000億円もの保険金がおりたという話を聞いた。郊外に次々とパチンコ屋が誕生して、パチンコ屋が大繁盛するようになった。飲み屋には行列が生まれた。保険金の効果であることは間違いなかった。
 親族を亡くした被災者たちが、茫然自失となってもおかしくない。心を何かでまぎわらせたいという気持ちも理解できる。しかし、多くの義捐金が集まり、学生たちもまたそうした募金によって支援活動を続けていたことも一つの現実だった。人々を救うのも、堕落させるのもお金であることを学生たちは痛感させられた。
 嬉しかったのは、今回のトークショーに高知新聞の幹部が共感してくれて、取材をしてくれたことである。学生たちの震災支援の話をおじさん、おばさんたちが真面目に聞く集まりはそうそうあるものではない。そんな機会をつくりたかったのが、トークショーを開催した一番の目的であるが、おじさん、おばさんたちに話を聞いてもらった学生たちが自信をつけて明日に飛躍してほしいという願いもあった。
 関口氏と大橋氏は3日間の高知滞在でものすごい高知ファンになってくれた。トークショーを準備し、当日役割を担ってくれたおじさん、おばさんたちにも感謝したい。