いまだに理解できないのが修験道の世界である。役小角(えんのおづぬ)を開祖とし、天台宗系と真言宗系があるそだ。三重県に勤務していたときに、熊野を中心とした紀伊半島の山岳宗教に触れる機会があったが、よくわからなかった。かつて山に棲む民が日本列島にいたとされ、ワッパつくりを生業とする人々もいたが、彼らが修験道を極めていたかどうかと問われれば首をかしげるしかない。
 学生時代によく九州を旅したが、必ず行ったのが国東半島だった。半島をめぐる幾多の沢の奥に必ず寺院があって門前にユニークな仁王の石像があった。それぞれのコミカルな表情をみるのが楽しみだった。大分の石像といえば、臼杵の石像と熊野権現の磨崖仏があまりに有名だが、数多き名もない仁王たちは自分にはけっこう大きな存在だった。
 他の人が知らない自分だけの宝である点がたぶん魅力的だったのだと思う。地元の説明では、国東では古くから修験道が行われ、修行中の人々が石像を刻んだ作品ということだったが、ここにも修行の厳しさは具象化されることなく、生きることの楽しさだけが表現されているように思われた。
 石像で思い出すのは道祖神とかお地蔵さまであろうが、そもそも日本に石仏はあまり多くない。金属か木像がもっぱらである。国東だけにどうしてこんなにも多くの石仏があるのかも疑問だった。大分県には青の洞門といって岩をくり貫いた道だあるように石が多い地形であることは間違いないが、石の多い地方は大分に限ったことではない。
 国東の石像は必ず、仏像は石を彫るものだと考えていた仏師たちによって彫られたに違いないと思っていた。つまり外国の影響を考えていたのである。思いついたのは、韓半島の影響である。韓半島の仏像には石像が多い。シルクロードから伝わった石仏は韓半島まではやってきたが、日本列島では木像になったことはすでに書いた。
 答えは意外ないところになった。国東半島から少し西に行ったところにある宇佐の八幡さまである。渡来人である「秦族」が住み着き、半島からの文化をもたらした。半島の人々が祀ったのが八幡神社の由来であることを聞いて合点がいった。
 そうか、国東の石仏は半島から渡ってきた渡来人によってもたらされたのだと考えれば分かりやすい。