友愛公共フォーラムの第2回会合で、面白い話を聞いた。報告者の一人、参院議員の梅村聡氏の五代前の祖先、関寛斎(文政13年2月18日(1830年3月12日) – 大正元年(1912年)10月15日))の話だった。

 関寛斎は、佐倉の順天堂で学んだ医者だった。銚子で開業していたところ醤油商、浜口梧陵の支援で長崎に留学しオランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・ メーデルフォールトから最新の西洋医学を習得して徳島藩の御典医となった。戊辰の役では官軍に従軍し、維新後は徳島に病院を開院した。金持ちからは俥の迎 えが来なければ往診しなかったが、貧乏人からは一銭も取らなかったことから人々に親しまれる医者となった。  晩年になって、徳島の広大な病院敷地を売却して、北海道陸別の開拓に力を注いだ。網走監獄の元受刑者や貧しい 農民を農場で働かせ、後に彼らに農場を分け与えようとした。家族の反対で裁判となり、関寛斎はその裁判に敗れてしまった。農場を小作たちに分け与えられな かったことを悔やんで服毒自殺したというのだ。

 医療とは何か、農業とは何か、自ら理想を実現しようとしたその姿に打たれたのが徳冨蘆花だった。蘆花は陸別に寛斎を訪ね、その著『みみずのたはこ と』(岩波文庫版)に関寛斎のことを書いた。司馬遼太郎もまた『胡蝶の夢』(新潮社)で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評している。いまも寛斎が開 拓した陸別町には関神社を祀り、関寛斎資料館では寛斎の尊い生き様を顕彰しているのだという。

 梅村氏が医者を目指したのは、小学校時代、夏の暑い時期に中学受験の勉強をしていた最中、母親から祖先の話を聞かされてからだという。人が人で、医者も 医者だった時代の話ではあるが、銚子の醤油屋さんが一医学徒を支援して長崎留学させた眼力もすごい。官軍に従軍したときは、江戸上野の決選で敵味方分け隔 てなく面倒をみた寛斎の精神はまさに赤十字をつくったスイスのアンリ・デュナンに通じるものである。

 ちなみに浜口梧陵は、和歌山で安政の大津波から人々を救った物語「稲わらの火」の主人公として世界的に有名である。