土佐山間に復活した碁石茶
よさこいを踊りに高知に帰った。よさこいと龍馬人気で駅前は例年になく活気を帯びていた。駅前広場に設営されたブースで「碁石茶」を売っているコーナーを見つけて話を始めた。碁石茶は高知県の山間の大豊町で栽培・製造されてきた独特の固形茶である。
かつては誰も知らなかった「すっぱい」このお茶が5、6年前にテレビで相次いで紹介されたことがある。肥満防止に効果があるということが伝わって、碁石茶が生き返ったのである。コーナーで商品紹介をしていた布元さんによると「注文が殺到して在庫がなくなった年もあります」という。土佐にも「ゆず」に次ぐだれにもまねの出来ないもう一つの特産品がうまれていたのだ。
実は、萬晩報は9年前にこの碁石茶を紹介していた。テレビで碁石茶が紹介されたその時間帯に数十通のメールが寄せられていたのだ。「碁石茶」で検索した人が突き当たったのが萬晩報だったからである。一通ごとに丁寧に大豊町役場の電話番号を書き入れて、役場に問い合わせるよう返信した。
地元でもほとんど知られなかったこのお茶を知ったのは、京都大学の先生だった松原毅著『お茶の来た道』(NHKブックス)だった。高知県にへんなお茶があるという記述だったと思う。
http://www.yorozubp.com/0102/010213.htm
『お茶が来た道』で驚いたのは雲南省で誕生した固形のお茶が四国の山間でずっと作り続けられてきたという事実だった。松原氏は照葉樹林帯という雲南省から紀伊半島へと続く樹木の帯の存在をお茶と関連づけて「お茶の来た道」を実証しようとしていた。
お茶が来た道は同時にお米の来た道でもあり、日本文化のルーツを探る道でもあるのだ。司馬遼太郎氏も『峠を行く』シリーズで福建省と日本の文化のつながりについて詳しく紹介していたことがある。
布元さんによると、昭和の末には一軒しかなかった碁石茶の生産農家がメディアで話題になることで、いまでは栽培農家は7軒に増え、JAと役場による第三セクターの「ゆとりファーム」も誕生したのだそうだ。筆者にとって碁石茶は単なる高知県産品の問題ではなかった。日本文化のルーツを探る新しい発見の一つだったのであるが、その発見が碁石茶の復興の一助となったのではないかという喜びもあった。