新川の悲惨な生活をともにしながら、賀川はどうしてこういう貧困が起きるのか、どうしたらこういう貧困から脱却できるのか、考え抜きました。

 まずは子どもたちの教育が不安となりました。親が親ですから、子どもたちはほったらかしにされていました。学校へ通う子どもはまれです。勉強してもすぐには金になりません。くずひろいなどはまだいい方です。乞食のお供も救いがあります。かっぱらいや掏摸(スリ)の仲間入りしている子どもたちも少なくありませんでした。

 悲惨なのは、子どもが労働力として”売買”の対象になっていたのです。女の子であれば、料理屋や芸者置き屋に売られることになります。
 賀川は新川に入ってすぐに日曜学校を始めます。キリストの話を聞かせるために、お菓子も用意しました。近所の子どもたちはすぐに賀川の友だちになります。
 食べることも大切です。日本のいまの子どもたちに「飢え」と言ってもたぶん分からないでしょう。お腹がすくから盗みを働く。盗みの動機はきわめて単純でした。賀川自身は新川から神学校に 通い、煙突掃除や近くの事務所でアルバイトもしていました。両親はすでにありませんでしたから、仕送りなどは期待できないのです。賀川の二間の長屋には住 むところがない何人もの”同居人”がいました。お金がないから、毎日、おかゆのようなもので空腹を満たし、一日二食の時期もありました。
 貧民窟の改善事業の第一号として、賀川は安くて栄養のある食事を提供しようと、食堂経営に乗り出します。「天国屋」を開店しました。経営は 中村という乞食坊主にまかせました。ほとんど詐欺師のような生活をしていたのですが、賀川の所に出入りするようになって改心していました。
 清潔で栄養満点、しかも価格は安いということで、初日から大繁盛します。しかし、問題はその日から浮上しました。「無銭飲食」です。食べた 後で「金がない」といわれるとどうしようもない。身ぐるみをはがすわけにはいかない。かといってつけで何回も食べさせ続けることはできない。毎月赤字となりながらも、天国屋は新川のアイドルとなりますが、人気があればあるだけ、なんで中村だけがいい思いをするのだという嫉妬心も出てくるのです。善意が嫉妬を育んだのでは新川の人間関係に新たな争いの種となります。なんともやるせないではありませんか。
 最後は酔っぱらった客が逆上して、天国屋の机や椅子、鍋釜から食器にいたるまで壊してしまいます。それでも賀川は続けようとしましたが、肝 心の中村は恐くなって逃げ出してしまいます。天国屋は貧民窟に開放した食堂ですから、客を選ぶわけにはいきません。そうなると跡を継いでくれる人もいなく なります。天国屋はいいアイデアだったのですが、短期間で閉鎖されることになりました。

 横山春一著『賀川豊彦傳』から天国屋での顛末を一部引用します。
 天国屋は千客万来の賑やかさであったが、毎日の売り上げ金14、5円に対し、1円5、60銭は、無銭飲食であった。これでは薄い口銭の商売 は成り立たない。中村は「すまない、すまない」とこぼしながらも、励んでいた。
 無頼の徒、植木屋の辰は、女房子供を育てることも出来ないで、幾度賀川の世話になったかわからないのに、中村の盛業振りを見て羨ましく思っ た。 11月30日の夕方、辰は酒の勢いに乗じて、天国屋にどなり込んで来た。「100円貸せ、飯屋をはじめる」と言うのである。中村が5円紙幣を握らせて帰そ うとしたところ、「5円の端金で商売が出来るかい? 人を馬鹿にしている」と腰をかけていた食卓からとび下りて、鉄の汁鍋を土間にたたきつけた。2、30 人分の茶わんも木っ葉微塵に打ち砕いた。
 余勢を駆って、辰は大きな斧を振り降り、賀川の教会にあらわれた。辰は台所の板戸をたたき割って入り込み、障子と言わず、棚といわず、土瓶から釜から、テーブルまで、しっかり叩き壊してしまった。
 この物音に、裏の喧嘩安が、赤く錆びた刀を引き抜いて、裸体のままでとびこんで来た。賀川は2人の酔っ払いを喧嘩させては、どんなことにな るかも知れないと思って、「安さん、わかった、わかった」と後から抱きついた。そこへまた、通称「秀」が、消防手の風体でとび込んで来た。辰は秀の止める のもきかないで、表から隣の家へ廻ったかと思うと、下駄のまま教会に上がって、オルガンを叩き壊している。蓋は飛ぶ。鍵盤は散る。
 賀川は辛うじて喧嘩安を、家につれ戻して、引き返して見ると、二つの椅子を滅茶苦茶に壊し、三つ目の椅子にかかろうとしている。辰は賀川を見つけると、椅子をすてて、とびかかって来た。
「こら、青瓢箪!」
と、賀川の胸倉をつかんで、下駄ばきのままで腹を蹴る。秀は荒縄を持ってきて、辰をねじ伏せた。巡査が来た時には、辰は縛りあげられた まま、教会の入り口に、酔いつぶれていた。
「酔いがさめたら、本性に帰りますから、このままにしておいて下さい」
と賀川は言ったが、3人の巡査は辰を引き起こして、1人は辰の左の腕をもち、1人は右の腕をもち、後の1人は立つの首筋をつかまえて、引っぱって行った。
 辰は交番でも暴れるので、巡査は消防手を頼んできて、荷車の上に縛りつけて、本署に送ることにした。無頼の夫をもって、日頃から虐待の限りをつくされ、生傷の絶え間もない女房だが、荷車にがんじがらめに縛りつけられた夫の姿を見ては、4人の子供をつれて、荷車にとりすがって泣きくずれた。4人の子供も、わっと一度に大声で泣きだした。
 長屋の人々は、毎日天国屋に来て、満足していたが、天国屋の食い逃げは、相変わらず会計をおびやかしている。この損失を全体に割りつけるならば、どうにかやれないことはないだろうが、救済の意味を含めて始めた、この天国屋では、それも出来なかった。