賀川豊彦は1888年、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として神戸に生を受けました。4歳の時、相次いで父母を失います。純一は徳島県の豪農の賀川家に婿入りしますが、本妻とは折り合いが悪く神戸でかめと生活していたのです。5歳の時に姉と共に徳島の本家に引き取られますが、父の回漕業を引き継いだ兄が事業に失敗、徳島の家産は抵当に入っていたため、すべてを失います。叔父の家に引き取られて、旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通い、1905年明治学院高等部神学予科に進みました。1907年からは新設の神戸神学校(神戸中央神学校)に通学していましたが、結核に苦しみ、医者からは「余命幾ばくもない」ことを言い渡されます。やがて「短い命ならば、貧しい人たちのために生きたい」と新川に住み込むことを決意したのでした。
 賀川が新川に移り住んだのは、1909年12月24日でした。クリスマスイブです。小さな手押し車に行李三つと竹製の小さな本棚を載せて、通っていた神戸神学校からの坂をとぼとぼ下りてきました。三畳と二畳の小さな空間は1日7銭でした。格安だったのは前の年、その家で人殺しがあって幽霊が出るとのうわさがあったからです。
 この幽霊長屋はもちろん賀川の居宅でしたが、同時に教会であり、救済所でもありました。しかし教会らしい什器備品もなく、救済所らしい設備もありませんでした。たぶん日本一小さい教会であったはずです。後に隣接していた三戸の長屋も次々と借りて、中間の壁を抜き三戸を一室として教会と事業所に使用し、残りの一戸を食堂に当てていました。
 家賃が日単位だったのは、住んでいた人たちがみんな日ばかりで暮らしていたからです。貧民窟には木賃宿も多くありました。大部屋にたくさん の人がそれぞれの場所を占拠して住んでいました。布団のない人は宿賃のほかに布団代を払うのです。七輪を借りてご飯も自分でつくります。
 宿というといまでは旅行で泊まる場所のように考えますが、当時は家がないため木賃宿に住んでいた人が少なくなかったのです。車引きだとか日雇いの人夫は多くが木賃宿を住みかとしていましたから、貧民窟に家を借りられる人はいい方だったのかもしれません。
 新川の家はほとんどが茅屋でした。雨戸などあるはずもなく、障子もボロボロ、吹きさらしです。便所は供用で、朝などは込み合うため、結果的に大小便が垂れ流しとなり、臭気が鼻をつきます。衛生観念はゼロです。子どもたちはほとんどトラホームに罹っています。
 賀川の弟子となった牧野仲造は当時の新川の様子について『百三人の賀川伝』の中で「1909年のクリスマスイブ」と題して次のように回顧しています。
 ここに住んでいるのは病人、身体障害者、寡婦、 老衰者、破産者といった落伍者でした。 家賃は1カ月5銭、薪1把2銭、木炭1山2銭、1畳間に夫婦2組で同居し4畳半に11人家族が住んでいることもあ りました。1戸当たり平均4.2人がすんでいました。職業は仲仕、土方、手伝人夫、日雇人夫、ラオすげかえ、下駄直し、飴売、団子売、辻占、屑屋、乞食な どで、児童の通学者は100人の中3人、新聞購読者は1人もなく、婦人でハガキの書ける者はありませんでした。
 そこは暴力の街で、腕力の強い者が兄貴になり、最強者が親分でした。傷害罪を犯したことが自慢の種となり、殺人罪の前科は親分の資格になるというわけでしたから、弱いものだけが苦しみつつ働いているのでした(『百三人の賀川伝』牧野仲造「1909年クリスマスイブ」)
 農村の貧困層が都市に流れ着くというのは産業革命後のイギリスでも同じだったようです。今でもマニラのマカティ地区は有名です。流れ者たちが都市の一角に貧民窟を形成したのは自然の成り行きだったのです。東京にも多くの貧民窟が生まれています。紀田順一郎や横山源之助ら当時の新聞記者がおもしろがって、『日本の下層社会』『東京の下層社会』など貧民窟の体験記事を多く書いています。
 賀川の長屋にはいつも6、7人が居候していました。食事代だけでも大変です。貰い子の葬式代はバカになりません。賀川に借金を迫る者はまだ いい方で、暴力づくで金をゆする者もいました。そんな時でも、賀川は黙ってあるだけのお金を渡していたのです。まさに事件が相次ぐ日々だったのです。
 一番、悲しかったのは大切な蔵書がしょっちゅうなくなることでした。近所の奥さんが勝手に上がり込んで蔵書を持っていってしまうのです。しかし、その奥さんが警察に捕まって盗難届を出せと連絡があっても賀川は出さず、耐え続けるのです。
 賀川自身が後に「貧民窟10年の経験」に「説教する勇気を持たない」とまで語っています。
病人の世話--最初の年は、病人の世話するなど気はありませんでしたが--(中略)1ケ月50円で10人の食の無い人を世話することに定めて居たのでした。然し来る人も来る人も重病患者であることには全く驚きました。私は病人の中に坐って悲鳴をあげました。
 賭博--博徒と喧嘩はつきもので、私は「どす」で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質に入れます。然し博徒と淫売婦とが、全く同じ系統にあることを知って驚きました、淫売の亭主が、その女の番人であるには驚きます。その亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります。
淫売の標準は芸者で、博徒の標準は旦那であるのだ。芸者も、旦那も遊んで居て食へる階級である。もし貧民が遊んで反社会的なことをして悪いと云ふなら、芸者と旦那を先ず罰せねばならないのである。此処になると、社会の罪悪が今日の産業組合の根底にまで這入って居ることを思うので・・・、説教をする勇気を持た無いのである。(賀川豊彦『人間苦と人間建築』「貧民窟10年の経験」から)
 賀川はこの新川の家で、毎日5時に起きた。日曜日は5時から日曜礼拝、それから讃美歌伝道に出掛けました。路地から路地へと賛美歌を歌うのです。やがて賛美歌が日曜日の目覚まし時計のようになりました。それが終わると今度は子どもたちのための日曜学校です。お菓子が振る舞われるので子どもたちは賛美歌伝道が始まると家を飛び出して賀川の後をついて回ったのです。「説教をする勇気もない」と語る一方で賀川には小さきお弟子さんたちが何人もいました。
 「私のお弟子は三人四人
  鼻垂れ小僧の蛸坊に疳高声の甚公は私の一と二の弟子で、
  便所の口まで追いて来て私の出るのを待っている乞食の「長」は三の弟子、
  クリスマスの前の夜、出口さんのご馳走に、
  お前はしらぬが、鯱ちよこ立ちしたよ。
  お父さんとや云えぬが、テンテイと呼べる、鍋嶋のお凸は四のお弟子。
  売られて行くのが悲しさに
  うちの戸口で半日泣いた今年十二の清ちゃんは私の可愛い女弟子!
  『涙の二等分』」
 子どもたちは日ごろ、親から罵られたり、叱られたりばかりしているので、愛に飢えていました。ですから、「先生に近づき先生に言葉をかけられ、その上手を引いて貰うことは無上の楽しみであり喜び」(武内勝の語り)でありました。